ノルト・オストゼー運河(読み)のるとおすとぜーうんが(英語表記)Nord-Ostsee-Kanal

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノルト・オストゼー運河」の意味・わかりやすい解説

ノルト・オストゼー運河
のるとおすとぜーうんが
Nord-Ostsee-Kanal

ドイツ北部、バルト海に臨むキールとエルベ河口のブルンスビュッテルを結ぶ海洋運河(大型船運河)。北海バルト海運河ともいう。ユトランド半島の基部を北東―南西方向に横断し、北海とバルト海を短絡する。長さ約98キロメートル、水面幅103メートル、底幅49メートル、深さ11メートル。平坦(へいたん)な台地を開削した水平式運河であるが、運河の両端には干潮満潮の影響(北海とバルト海の干満の時間差による水位差と、それに伴う運河内の潮流の発生)を防ぐための閘門(こうもん)が設けられている。通称はキール運河Kiel Canal(英語)であるが、公式にはこの名称でよばれたことはない。

 同運河は、水路の複雑なエアスン海峡や大・小ベルト海峡を避け、かつユトランド半島を迂回(うかい)せずに北海とバルト海を結ぶ航路を形成する目的でつくられ、バルト海貿易に大きな利益を与えたが、その建設の動機や利用の歴史からみると、なによりも戦略的、軍事的意義が大きく評価されねばならない。北海とバルト海を運河で結ぶ計画は古く、14世紀にさかのぼる。17世紀、三十年戦争での有名な傭兵(ようへい)隊長ワレンシュタインも計画したことがあるという。ユトランド半島南部を横断する運河を最初に完成させたのは、デンマークが同地方を領有していた時代で、西半部は北海に注ぐアイダー川を利用し、1784年デンマーク国王クリスティアン7世Christian Ⅶ(1749―1808、在位1766~1808)がアイダー運河Eider-Kanalを開かせた(深さ3.5メートル、幅31メートル)。1864年、この地方がプロイセンに併合され、1870年にドイツ帝国が成立すると、この運河の戦略的重要性はさらに大きいものとなった。当時のドイツは東にロシア、西にフランスという二大仮想敵国をもち、バルト海と北海との間で艦隊を迅速に移動させることのできる運河が必要とされたからである。1887年に現在のルートによる運河が着工され、1895年にカイザー・ウィルヘルム運河Kaiser-Wilhelm-Kanalの名称で開通した。キール側の運河東半部はデンマーク時代の運河を拡大したものであった。開通時は底幅22メートル、深さ9メートルの規模であったが、軍艦の大型化とともに拡張が必要となり、1908~1914年の改修工事で現在の規模となった。第一次・第二次世界大戦では、この運河の戦略的な有効性は高く評価された。第一次世界大戦後ベルサイユ条約でドイツ管理下に国際化され、自由航行が認められ、外国商船にも開放され、ハンブルク港の対バルト海貿易拡大にも大きな効果があった。1936年ヒトラーは同条約を廃棄したが、第二次世界大戦後はドイツの管理下にふたたび国際化されている。

[青木栄一・吉田輝夫]

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