ヌイイ条約
ぬいいじょうやく
第一次世界大戦の結果、1919年11月27日にパリ郊外のヌイイ・シュル・セーヌNeuilly-sur-Seineで連合国とブルガリアとの間に調印された講和条約。これにより、ブルガリアは、ルーマニアに南ドブルジアを、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア)にブルガリア西部国境の四地域を、またギリシアに西トラキアをそれぞれ割譲し、4億5000万ドルの賠償金および石炭などの物資無償引渡しという義務が課せられた。その結果、ブルガリアは、エーゲ海への出口を失い、多数の自国人を国境外に残し、支払い能力を超える賠償金をかかえることになった。これが、ブルガリアと他のバルカン諸国との間に新たな不和や民族問題を起こす原因となった。
[寺島憲治]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ヌイイ条約
ヌイイじょうやく
Treaty of Neuilly
第1次世界大戦後,連合国とブルガリアとの間で締結された講和条約。 1919年 11月 27日パリ郊外のヌイイシュルセーヌで調印され,1920年8月9日発効した。 13編 296条からなり,ベルサイユ条約と同様の国際連盟規約が,第1編に含まれている。この条約によって,ブルガリアは西部国境地方をセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (のちのユーゴスラビア王国) に譲り,ドブルジャをルーマニアに返還し,トラキア西部をギリシアに譲って,エーゲ海への出口を封じられた。また,陸軍兵力は2万に制限され,海軍は禁止され,さらに賠償金の支払い,物資引き渡しを義務づけられた。ヌイイ条約に対するブルガリアの不満は,第1次世界大戦後のバルカンの不安定要因の一つとなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ヌイイ条約
ヌイイじょうやく
Treaty of Neuilly sur Seine
第一次世界大戦後の1919年11月27日,パリ近郊のヌイイ−シュル−セーヌ(ヌイイ宮殿)で連合国とブルガリアとの間に結ばれた講和条約
ブルガリアにユーゴスラヴィア・ギリシア・ルーマニアへの領土割譲,軍備制限,賠償金,少数民族保護の義務などを課した。この条約は,ブルガリアに過重な負担となり,のち,賠償金は大幅に軽減され,さらに領土問題は多くの紛争の種となった。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報