ナルセス(読み)なるせす(英語表記)Narses

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナルセス」の意味・わかりやすい解説

ナルセス
Narses; Narsēs

[生]480頃.アルメニア
[没]574
ビザンチンの将軍宦官で,皇帝親衛隊長としてユスチニアヌス1世に仕え,侍従長昇進。 532年コンスタンチノープルで暴動発生のとき,適宜な軍事的行動と莫大な政治的賄賂によって帝位を救った。 535年エジプトに派遣され,総大主教テオドシウスの選任をめぐる紛争を収め,538年帝国財務長官となり,イタリア遠征軍長官ベリサリウスを助けるため同地に送られたが,同時にベリサリウスの動静を密告することをも命じられた。両者の不和により作戦は失敗,翌年召還された。しかし 551年バルカンに侵入したフン族などを撃退,552年には3万の軍を率いてイタリアで東ゴート人を撃滅し,554年イタリアを征服,その後 13年間イタリアを統治した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナルセス」の意味・わかりやすい解説

ナルセス
なるせす
Narses
(490ころ―574ころ)

東ローマ帝国の宮廷官僚軍人。ペルシア領アルメニア出身の宦官(かんがん)であった。皇帝ユスティニアヌス1世の側近として務め、538年にはイタリアへ軍を率いて遠征したが、先発の将軍と意見があわず、翌年召還された。だが皇帝および皇妃テオドラの信任は厚かった。551年イタリア方面の最高司令官に任命され、552年、561年にゴート人に対して勝利を収める。554年にはカプア近郊の戦いでアラマン人を破り、全イタリアを屈服せしめた。ローマに居を定め、軍事・政治上の大権保有者としてイタリア全体の政治をつかさどった。また、宗教上の紛争の渦中にあってよく中立的立場を保ち続けた。567年皇帝から呼び戻され、イタリアを離れた。死後コンスタンティノープルに手厚く葬られた。

田村 孝]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナルセス」の解説

ナルセス
Narses

480/490~574

ペルシア領アルメニア出身の宦官(かんがん)ニカの反乱鎮圧に参加し,538年にユスティニアヌス1世の侍従長となり,同年と552年にイタリアの東ゴート討伐に派遣されてイタリアを平定し,567年までイタリア軍司令官の地位にあった。

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百科事典マイペディア 「ナルセス」の意味・わかりやすい解説

ナルセス

ビザンティン帝国の将軍。アルメニア出身。ユスティニアヌス帝の宦官(かんがん)として仕え,ニカの反乱を鎮定し,東ゴート王国を征服,フランク族,アラマン族を破り,イタリアの総督となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナルセス」の解説

ナルセス
Narses

478ごろ〜568
東ローマ帝国の将軍
ユスティアヌス1世の宦官 (かんがん) 。ベリサリオスの後任としてイタリアに遠征し,東ゴート族を破り,ラヴェンナでイタリア総督となった。

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世界大百科事典(旧版)内のナルセスの言及

【ベリサリオス】より

…プロコピウスの《戦記》で戦功をたたえられる。対ペルシア戦の指揮のほか,〈ニカの反乱〉(532)で皇帝の危急を救い,とくにユスティニアヌス1世の西方再征服ではアフリカのバンダル族(533‐534),イタリアの東ゴート族(535‐540)に対する遠征軍を指揮,いったん召喚された後ナルセスNarsēs(478ころ‐573)と交代するまで対ゴート戦を続行(544‐548)した。 13~14世紀のパライオロゴス朝時代に,彼を主人公として,その生涯とは無関係にビザンティン民衆文学作品《ベリサリオスの歌》(15音節詩)が成立。…

※「ナルセス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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