ドルゴン(英語表記)Dorgon

改訂新版 世界大百科事典 「ドルゴン」の意味・わかりやすい解説

ドルゴン (多爾袞
)
Dorgon
生没年:1612-50

中国,清初の皇族政治家兼軍人。睿親王。太祖ヌルハチの第14子。太宗の弟。太宗の世に内モンゴルチャハル部,朝鮮に対する征戦や遼西の錦州攻囲戦などに従軍し,戦功によりメルゲンダイチン(聡明の意)の号を賜り,和碩睿親王に封ぜられた。1643年太宗が没すると,その後継者について紛糾が生じたが,太宗の第6子で幼少の順治帝を擁立し,みずからは鄭親王ジルガランとともに輔政王として摂政に就任した。しかし,まもなくジルガランをおさえ,国政の最高権力者として存分に活躍し,入関前後の多端な政局の運営に当たった。44年(崇禎17)李自成が北京を陥れ,明朝最後の皇帝崇禎帝が自殺して明朝が滅びると,明将呉三桂先導で山海関内に兵を進め,李自成を北京から駆逐して,都を瀋陽から北京にうつした。この年,叔父摂政王に封ぜられ,48年皇父摂政王に進封された。50年(順治7)長城外のカラホトンで狩猟中に急死した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドルゴン」の意味・わかりやすい解説

ドルゴン
どるごん / 多爾袞
Dorgon
(1612―1650)

中国、清(しん)代初めの皇族。太祖ヌルハチの第14子。八旗の一つ鑲(じょう)白旗の和碩貝勒(ホシヨベイレ)として太祖の時代から重きをなしたが、1636年太宗ホンタイジの官制改革に際して和碩睿親(えいしん)王に封ぜられた。43年太宗が没すると太宗の第六子福臨(世祖順治帝)を後嗣に推戴(すいたい)し、彼自身は鄭親(ていしん)王ジルガランとともに輔政(ほせい)王となった。44年征明(みん)に向かったが、明の将軍呉三桂(ごさんけい)の要請をいれて、李自成(りじせい)を駆逐して北京(ペキン)に入城すると、世祖を迎えて都を瀋陽(しんよう)から北京へ移した。彼によって清朝の中国統治の基礎が築かれたといってよい。その後、皇父摂政(せっしょう)王として権力を一身に集めたが、50年、狩猟中カラホトンで没した。死後、義皇帝と追尊され、成宗の廟号(びょうごう)を受けたが、翌年反逆罪に問われて爵位を削られ、宗室から除かれた。しかし、1778年乾隆(けんりゅう)帝によって名誉が回復された。

松村 潤]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドルゴン」の解説

ドルゴン
Dorgon 多爾袞

1612~50

清の皇族。睿親(えいしん)王。ヌルハチの第14子。順治帝の摂政となって政治の実権を握り,1644年明将呉三桂(ごさんけい)を先導に北京に進出,清の中国統治の基礎の確立に大きな功績を立てた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ドルゴン」の解説

ドルゴン
Dorgon
多爾袞

1612〜50
清初期の皇族・政治家
太祖ヌルハチの第14子。モンゴルのチャハルや明の征討に功があり,睿親王に封じられた。順治帝の摂政となり,事実上最高権力者として力をふるった。呉三桂と結んで1644年北京にはいり,清朝の基礎を確立した。

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世界大百科事典(旧版)内のドルゴンの言及

【清】より

…世祖順治帝である。ただ順治帝は6歳の幼帝であったので,叔父ドルゴンが摂政となり,政治,軍事の事実上のリーダーとして権力をにぎった。彼は皇帝継承時の政治的不安定を乗り切って満州族の統一を維持し,人口増と凶作による経済的危機に対処し,あわせて対明関係の打開をはかるべく,八旗の主力を率いて出兵を断行した。…

※「ドルゴン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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