ドニ(英語表記)Denis

精選版 日本国語大辞典 「ドニ」の意味・読み・例文・類語

ドニ

(Maurice Denis モーリス━) フランスの画家、版画家。ゴーガンの影響下、ナビ派に加わり、単純化された平面による作風を示した。晩年は、宗教的主題をもった作品を多く描いた。絵画論の著作にも重要なものがある。(一八七〇‐一九四三

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デジタル大辞泉 「ドニ」の意味・読み・例文・類語

ドニ(Maurice Denis)

[1870~1943]フランスの画家。ゴーギャンの影響下に結成されたナビ派の中心となる。のち多数の宗教画を描いた。作「聖歌」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「ドニ」の意味・わかりやすい解説

ドニ
Denis

3世紀半ばごろのキリスト教の聖人でパリ初代司教。ラテン名ディオニュシウスDionysius。生没年不詳。Denysともつづる。〈聖人〉を意味する〈サンSaint〉を付してサン・ドニと呼ぶことも多い。フランスの守護聖人ならびに14救難聖人の一人。頭痛,狂犬病を治癒すると信じられる。《使徒行伝》が伝えているアテナイの裁判官ディオニュシウス・アレオパギタと同一視されることもある。伝説によれば,キリスト教布教のためにローマ司教ファビアヌスFabianus(在位236-250)によりガリアへ派遣されたが,異教徒により2人の聖人,リュスティク(ルスティクス)とエリュテール(エレウテリウス)とともに斬首されて殉教した。また別の伝説では,モンマルトル(〈殉教者の丘〉の意味)で斬首された後,みずからの首を抱えてパリ北方の一寒村(現在のサン・ドニともいわれる)まで運んだという。

 美術作品では,首を抱えた司教の姿で表され,彼の伝説から,牢獄でキリストから最後の聖体を受ける場面や斬首される場面などが多く表される(ベルショーズH.Bellechose《ドニの殉教》,1416,ルーブル美術館など)。祝日10月9日
サン・ドニ修道院
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ドニ
Maurice Denis
生没年:1870-1943

フランスの画家,美術理論家。ナビ派の中心人物の一人。グランビル生れ。アカデミー・ジュリアン在学中の1888年,セリュジエを通じて知ったゴーギャンの〈総合主義synthétisme〉に強く影響され,〈照応correspondance〉に基づいた象徴主義理論を展開。主題とは無関係の絵画それ自身の自立性を主張する一方で,アール・ヌーボー風の曲線と,淡く甘美な色面を調和させた作風により多方面で世俗的な成功をおさめる。宗教芸術の復興にも力を注ぎ,1919年,ルオーらとパリに〈宗教芸術学校〉を開設,みずからも伝統的な宗教画の制作に専念するが,これは当初の革新的な理論とは奇妙な対照をなしている。1914年以来ドニが居を構えたサン・ジェルマン・アン・レーに,80年,主要作品を収蔵する美術館が開設された。
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百科事典マイペディア 「ドニ」の意味・わかりやすい解説

ドニ

フランスの画家。グランビル生れ。アカデミー・ジュリアンに学ぶ。ゴーギャンの影響を受け,ビュイヤールボナールらとナビ派を結成し,その理論化に寄与したが,次第にナビ派から離れ,装飾的・説話的に宗教的主題を描くようになり,教会堂や劇場に壁画も残した。代表作に《ミューズたち》(1893年,オルセー美術館蔵),《キリストの墓を訪れる女たち》(1894年,サン・ジェルマン・アン・レー,プリウレ美術館蔵)などがある。評論家としての活動も行い,《理論》(1912年),《新理論》(1922年)などの著書がある。
→関連項目川口軌外セリュジエラ・フレネー

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドニ」の意味・わかりやすい解説

ドニ
どに
Maurice Denis
(1870―1943)

フランスの画家。グランビルに生まれる。17歳のときからアカデミー・ジュリアンに、ついでエコール・デ・ボザールに学ぶ。1890年サロンに初出品。ポンタバンのゴーギャンの教訓を得たセリュジエを中心とする「ナビ派」の結成に参加。ドニは年少であったが、やがてこのグループの指導的な存在として、90年、現代絵画の基本的路線となる理論「一枚の絵とは、軍馬や裸婦やなんらかの逸話である以前に、本質的に、ある秩序で配置された色彩が覆う平坦(へいたん)な面であることを想起しよう」を宣言(『アール・エ・クリティック』誌)。簡略化された形態、アール・ヌーボー風の曲線の体系、穏和な色彩、理想主義的な主題が、90年代から20世紀初頭の彼の作品を特徴づけている。1912年シャンゼリゼ劇場の天井画を描くが、翌年ごろから宗教画に専念し、19年にはデバリエールとアール・サクレ工房を設立している。多くの装飾壁画、挿絵を手がけ、『絵画理論』(1912)、『宗教美術史』(1939)などの著作もある。その他の代表作に『セザンヌ礼賛』(1900・パリ国立近代美術館)。サン・ジェルマン・アン・レーに没。

[中山公男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドニ」の意味・わかりやすい解説

ドニ
Denis, Maurice

[生]1870.11.25. グランビル
[没]1943.11.13. パリ
フランスの画家。 1888年アカデミー・ジュリアンとエコール・デ・ボザールに学び,P.セリュジエ,E.ビュイヤール,P.ボナールらを知る。ゴーガンの強い影響を受け反印象主義を標榜し,彼らと 1880年代末にナビ派を結成,象徴主義美術運動を推進した。 1900年有名な『セザンヌ礼賛』を描く。 1895,97,1907~08年のイタリア旅行で 14~15世紀のフレスコ画に感銘,次第に宗教的モチーフに忠実な作風に移った。 19年パリにアトリエ・ダール・サクレを創設。宗教芸術復興運動を起し,フランス各地の聖堂に装飾画を描いたほか,美術論『理論』 Théories (1912) ,『新理論』 Nouvelles théories (21) を残した。

ドニ
Denis

パリの初代司教,フランスの保護聖人。ラテン名 Dionysius。3世紀中頃布教のためゴールのパリに送られ殉教。ツールのグレゴリウス (6世紀) の史書の記述が8世紀に誤解され 90年頃の人とされ,9世紀にはインドゥマンが彼をディオニュシオス・ホ・アレオパギテスと同一人と考え,ディオニュシオス偽書の著者とした。伝説では斬首されたのち,首を手に歩いたとされ,美術ではそのように表現される。祝日 10月9日 (東方 10月3日) 。

ドニ
Denis, Jean-Baptiste

[生]1643
[没]1704
フランスの医師。パリ大学教授,ルイ 14世の侍医をつとめた。記録によると,数度の動物実験をしたのち,1667年頃に出血多量で重態の青年に子ヒツジの血を輸血して成功したといわれる。しかし,その後事故が起ったので,68年に動物血のヒトへの輸血は禁止された。

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世界大百科事典(旧版)内のドニの言及

【サン・ドニ修道院】より

…パリ北郊にある修道院。273年にモンマルトルで殉死したドニ(使徒パウロの弟子ディオニュシウス・アレオパギタともいわれる)が,みずからの首を抱えて約10km歩き,倒れた場所に築かれたという墓をめぐって創設された。墓の周辺に形成された崇敬団に対し,まず聖ジュヌビエーブが修道院を建設し(5世紀末),ついでダゴベルト王が教会堂を再建した(7世紀初)。…

【パリ】より

…市の南北周辺はゆるい丘陵地となり,ビュット・ショーモン,ビュット・モンマルトル,ビュット・シャイヨー,モン・パリ,モンパルナスなどの丘がある。
【市街】
 パリ市街は1859年まで1~12区の約15km2にすぎず,13~20区は郊外にあったが,現在はその全区域に加えて,パリ近郊3県のオー・ド・セーヌ,セーヌ・サン・ドニ,バル・ド・マルヌが,完全に市街地化して連なっている。近郊は幅約10kmの内帯をなし,面積355km2,人口293万(1982)を擁して,パリと一体化している。…

【ナビ派】より

…カトリック精神および象徴主義の色彩が強い,フランス19世紀末の画家グループ。1888年,パリのアカデミー・ジュリアンの画学生であったドニセリュジエを中心に形成された。〈預言者〉を意味するヘブライ語nāḇî’にちなんだグループ名はセリュジエの命名になる。…

※「ドニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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