ドニゼッティ(読み)どにぜってぃ(英語表記)Gaetano Donizetti

デジタル大辞泉 「ドニゼッティ」の意味・読み・例文・類語

ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)

[1797~1848]イタリアの作曲家。明朗で洗練された作風で、19世紀前半のイタリア‐オペラ代表。作品に「ランメルムーアのルチア」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ドニゼッティ」の意味・読み・例文・類語

ドニゼッティ

(Gaetano Donizetti ガエタノ━) イタリアの作曲家。ロッシーニにつづくオペラ作曲家として一九世紀前半に活躍。華麗な旋律と劇的な舞台効果で、ロマン派歌劇の中心的存在となった。代表作は「ルチア」「連隊の娘」「ドン=パスクアーレ」など。(一七九七‐一八四八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドニゼッティ」の意味・わかりやすい解説

ドニゼッティ
どにぜってぃ
Gaetano Donizetti
(1797―1848)

イタリアの作曲家。ベルガモに生まれ、生地とボローニャの音楽院で学ぶ。オペラ作曲家を志し、20歳ごろ三曲のオペラを書いたが上演できず、失望して軍隊に入る。軍務のかたわら作曲を続け、25歳でオペラ作曲家として認められ、多産な作曲生活に入った。ロッシーニの亜流の二十数曲を発表したのち、1830年にイギリス王ヘンリー8世の妃アン・ブリンの悲劇を題材とする『アンナ・ボレーナ』をミラノで上演して空前の成功を収め、すぐにロンドン、パリ、ウィーンでも上演されて世界的名声を確立。続いて、ロマンチックな感傷の漂う田園喜劇『愛の妙薬』(1832)、歴史劇『ルクレツィア・ボルジア』(1833)、当時流行の狂乱の場をクライマックスとする『ランメルムーアのルチア』(1835)と相次いで傑作を発表、ベッリーニとともにロッシーニ引退後のイタリア・オペラの第一人者となった。

 1837年、ナポリ王立音楽院長の席を争って敗れ、翌年『ポリウート』がナポリ当局の上演禁止処分を受けたこともあって、38年からパリに住み、40年にはフランス風の軽快な喜劇『連隊の娘』、壮大な悲恋物語『ラ・ファボリータ(寵姫(ちょうき))』、『ポリウート』を改作した『殉教者』を上演し、パリ楽壇の寵児となった。42年にはウィーンを訪れ『シャモニーのリンダ』を上演、熱狂的な歓迎を受け、宮廷楽長兼作曲家に任命される栄誉を受けた。43年パリでオペラ・ブッファの傑作『ドン・パスクアーレ』を上演したが、このころから健康を害し、45年卒中の発作に襲われ、闘病生活ののち故郷で没した。

 まれにみる速筆で知られ、70曲以上のオペラを作曲。注文に応じて書き飛ばした駄作も多いが、前記の諸作は、歌唱技術の極限を駆使しつつ、流麗な旋律美の連続のうちに劇的興奮を盛り上げるベル・カント・オペラの代表的傑作であり、先輩ロッシーニ、後輩ベルディの作品とともに、19世紀イタリア・オペラの名作として今日も絶大な人気を誇っている。

[大久保一]

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百科事典マイペディア 「ドニゼッティ」の意味・わかりやすい解説

ドニゼッティ

イタリアのオペラ作曲家。19世紀前半のイタリア・オペラ界でロッシーニベリーニと並び称された。生地ベルガモとボローニャで音楽を学び,1818年に最初のオペラを発表。以後多くの作品をイタリア各地で発表し急速に名声を高めた。1830年ミラノで初演した《アンナ・ボレーナ》(1830年)で圧倒的な成功をおさめ,以後《愛の妙薬》(1832年),《ルクレツィア・ボルジア》(1833年),《ルチア》(1835年),《ドン・パスクアーレ》(1843年)など生涯に70曲近いオペラを作曲。パリやウィーンでも人気をさらった。ベル・カントの美声を引き立たせる流麗な旋律と管弦楽の巧みな書法は,のちのベルディにも影響を与えている。
→関連項目カラスベルガモ

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改訂新版 世界大百科事典 「ドニゼッティ」の意味・わかりやすい解説

ドニゼッティ
Gaetano Donizetti
生没年:1797-1848

イタリアのオペラ作曲家。ロッシーニベリーニとともに19世紀初頭のイタリア・オペラ界に黄金時代を築いた。1818年,最初のオペラを発表して成功,イタリアからパリやウィーンにも活躍の場をひろげ,25年間に70曲近いオペラを作曲。国際的名声とともに職人的筆の速さを誇っているが,歌手のベルカント技法を際だたせる流麗・甘美な旋律と快適なリズムに劇的興奮を加味し,オペラ全体の劇的効果を高めることに天賦の才能をもっていた。《アンナ・ボレーナ》(1830),《ルチア》(1835),《ラ・ファボリータ》(1840)など,シリアスなオペラとともに,《愛の妙薬》(1832),《連隊の娘》(1840),《ドン・パスクアーレ》(1843)など,コミックなものにも優れた作品を残しており,ほかに若干の歌曲や宗教曲,器楽曲もある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドニゼッティ」の意味・わかりやすい解説

ドニゼッティ
Donizetti, Gaetano

[生]1797.11.29. ベルガモ,チザルピーナ共和国
[没]1848.4.8. ベルガモ,オーストリア帝国領ロンバルディア
イタリアの作曲家。フルネーム Domenico Gaetano Maria Donizetti。ボローニャ音楽院に学び,法律家にしようとする父の束縛から逃れるために入隊。余暇にオペラを作曲して好評を博した。1823年除隊後,速筆多作ぶりを発揮,『アンナ・ボレナ』 (1830) ,『愛の妙薬』 (1832) ,『ランメルモールのルチア』 (1835) などでジョアッキーノ・A.ロッシーニに次ぐイタリア・オペラ作曲家として国際的名声を得た。1839年『ポリウト』で検閲当局と争い,パリに移って 1840年『連隊の娘』を上演。ウィーンでは『シャモニーのリンダ』 (1842) の人気により宮廷作曲家の称号を得た。1844年以後,神経性麻痺で再起不能となった。70曲あまりのオペラを残した。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ドニゼッティ」の解説

ドニゼッティ

イタリアの作曲家。オラトリオやカンタータなどの宗教曲やオーケストラ作品、室内楽作品、ピアノ作品、歌曲と多作で筆の速い作曲家であった。今日では、ベル・カント・オペラの作曲家として知られている。織物業を ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のドニゼッティの言及

【イスタンブール】より

…西ヨーロッパ諸国との貿易が拡大すると,ビザンティン時代以来外国人商人の居留地として知られていたガラタGalata地区が発展し,その隣のベイオウルBeyoğlu地区ともども新しい商業・文化の中心となり,モスクの光塔(ミナレminare,ミナレット)の林立する旧市街と好対照をなした。新市街にはヨーロッパ各国の大使館(現在は領事館)が軒を並べ,外国人商人や,これと結んだ非ムスリム少数民商人たちがモダンな店を構え,またイタリアの作曲家ドニゼッティGiuseppe Donizetti(Gaetanoの兄)などの〈御雇外国人〉も多数居住した。政府は彼らの協力を得て帝国の西欧化に取り組み,ガラタサライ・リセーGalatasarayı Lisesi(1868創立),ダーリュッフュヌーンDârüffünun(1863創立,イスタンブール大学の前身)などの西欧型教育機関を設立した。…

【ルチア】より

ドニゼッティの代表的オペラ。正式名《ランメルモールのルチアLucia di Lammermoor》。…

※「ドニゼッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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