ドゥーマ(英語表記)duma

精選版 日本国語大辞典 「ドゥーマ」の意味・読み・例文・類語

ドゥーマ

〘名〙 (Duma 正しくは Gosudarstvjennaja duma 国家のドゥーマの意) 帝政ロシアの議会。下院にあたり、間接選挙で選ばれた議員によって構成され、限定された立法権を認められていた。一九〇五年の第一次ロシア革命に際してツァーリが開設を約し、一九〇六年に成立、四回召集された。一九〇六、七年に開かれた第一、二回は自由主義的・反政府傾向がみられたが、一九〇七年のストルイピン選挙法改正選挙権が縮小し、同年の第三回、一九一二年の第四回は保守的傾向が強まり、一九一七年の二月革命の際に解体した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ
duma

帝政末期のロシアを専制からブルジョア的君主制にかえることをめざして創設された国会。1890年に第1帝国議会が開かれた日本より16年遅れて,1906年に第1国会(4月27日~7月8日)が1905年革命の産物として召集され,つづいて第2国会(1907年2月20日~6月2日),第3国会(1907年11月1日~12年6月9日),第4国会(1912年11月15日~17年10月6日)と合計して12年の間に4回召集されたが,国会と政府の衝突により会期を完全に消化したのは第3国会だけであった。この下院のドゥーマとともに上院の国家評議会Gosudarstvennyi sovetがあった。下院議員は地主とブルジョアジーに有利で,労働者や農民に不利な不平等な選挙法にもとづいて選出されたが,上院議員の半数は勅選で,他の半数は貴族会や地方自治会,産業界や正教会,帝国大学,科学アカデミーなどからそれぞれ互選で選ばれており,上院はより保守的であった。

 第1国会と第2国会の大多数は反政府的な党派からなり,その中心は小ブルジョア政党カデットで,第1国会議長も,第2国会議長もカデット党員であった。当時は議院内閣制が確立されていなかったこともあり,国会と政府は衝突を繰り返していた。この時代の最大の問題は土地問題であった。フランス革命では所有の神聖不可侵は〈人権宣言〉の土台となっていたが,20世紀初めのロシアでは土地の私的所有の神聖不可侵を確立しようとしたのは政府側で,反政府側はすべてそれに反対した。第1国会がたった70日で解散されたのは,国会が私有地強制収用を問題にしたからであった。明治初年に身分制が廃止され,農地の私的所有権が確立された日本とは異なり,ロシアでは農村共同体(ミール)を解体し,小分割地農民を創出することが1907年に始まるストルイピンの改革の課題であり,ロシア社会のブルジョア的改革の第一歩であった。

 ツァーリズムは第2国会をも解散し,選挙法をさらに改悪し,第3国会と第4国会の選挙を挙行するが,その結果,カデットより右派のオクチャブリストが中心勢力になり,国会議長もこの党から出た。第3国会ではオクチャブリストをはじめ右派の諸党派が共同体解体法(1906年11月9日の勅令)を支持した。しかし,ストルイピンが共同体解体の成功を見込んで,身分制的な地方行政制度と郷裁判所を改革し,全身分の郷町村制を導入する法案を国会に提出したとき,右派はこれに強く反対した。市民的自由を保障する法案がことごとく成立しなかったのも同じ理由による。

 通常,この時期はストルイピン反動の時代と呼ばれているが,ブルジョア的自由が最もよく保障されていた時代であり,上下両院の議事録も公表されていた。

 なお,ソ連邦崩壊後のロシア連邦の議会のうち,下院に当たる国家会議は〈ドゥーマ〉の呼称を用い,Gosudarstvennaya duma(国家ドゥーマ)という。また,ロシア連邦を構成する各州の議会も多くはドゥーマと呼ばれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ
どぅーま
дума/duma

正確にはГосударственная дума/Gosudarstvennaya duma。1906~17年のロシア帝国の議会。1905年革命のさなか、「十月宣言」によって開設が約束された。帝制政府はこれによってブルジョアジーとの同盟を達成し、ブルジョア君主制へ移行しようとした。国会の立法権は制限されたもので、法律案は皇帝の承認なしには成立せず、またその招集・解散権も皇帝に留保されていた。議員の選挙は、土地所有者(地主)、都市(ブルジョアジー)、農民、労働者の四つに分けて行われる間接選挙制であり、婦人、学生、軍務従事者は選挙権をもたなかった。以下、第一国会から第四国会まで簡単に概観する。

(1)第一国会(1906.4.27~7.8) 地主の1票は都市ブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当したといわれる不平等な選挙であったにもかかわらず、政府に近いオクチャブリスト(十月党)はわずか16人、ほかはカデット(立憲民主党)179、民族自治派63、無党派105、農民の要求を代表していたトルードビキ97、社会民主党18という構成であった。土地問題がおもな議題であったが、とうてい政府の意に添わず、軍隊によって解散させられた。

(2)第二国会(1907.2.20~6.2) 第一国会選挙をボイコットしたボリシェビキも加わって、その構成はいっそう反政府的となり、ストルイピン農業改革実施のための1906年11月9日勅令の追認にも応じなかったため、解散と新選挙法公布が行われた。

(3)第三国会(1907.11.1~1912.6.9)新選挙法によってオクチャブリストは第一党となり、法定の会期を全うした。

(4)第四国会(1912.11.15~1917.10.6)進歩派がわずかに増大。第一次世界大戦が長期化すると、政府と国会との対立が目だつようになり、1917年2月27日、国会は国会臨時委員会を選出し、臨時政府を形成して、崩壊した帝制政府にかわって政権を引き継いだ。

[木村英亮]

『中村義知著『ロシア帝国議会史』(1966・風間書房)』

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百科事典マイペディア 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ

帝政ロシア末期の議会。1905年第1次ロシア革命の際十月詔書で開設が約束された。第1国会は1906年春に召集,1917年の二月革命の際に第4国会で解体。第1,第2国会ではカデットを中心に反政府的党派が,その後はより右派のオクチャブリストを中心とする党派が多数を占めた。土地所有者,都市民,農民,労働者からなる身分別の多段階選挙で選出され,きわめて制限された立法権を与えられたにすぎなかった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドゥーマ」の意味・わかりやすい解説

ドゥーマ
Duma

1906~17年の立憲制期における帝政ロシアの立法府下院 (国会) 。正式には Gosudarstvennaya Duma (国政審議会) という。 05年革命のさなかの 10月 30日 (旧暦 17日) ニコライ2世の「十月宣言」によってその開設を約束され,翌 06年5月 10日 (旧暦4月 27日) 招集された。常に左右両翼に分裂し,専制の擁護者はその存在そのものに憤慨していたのに対して,民主主義者はその不十分な権限と間接不平等選挙権に反対していた。しかし多くの欠陥にもかかわらず,それは恣意的な統治に対する制約として機能し,ロシア社会の少くとも一部に憲政の観念と実践を習熟させることを助けた。第1から第4ドゥーマまで存続し,17年 11月 (旧暦 10月) の革命とともに消滅した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドゥーマ」の解説

ドゥーマ
Duma

ロシアの下院。1905年革命の過程で,同年10月30日(ロシア暦17日)の十月詔書により開設が約束された。地主,都市民,農民,労働者の4クーリア(区分)にもとづく間接選挙制がとられ,第1・第2国会は,農民に約45%の議席を与える05年12月の選挙法によったが,第3・第4国会は07年6月クーデタ的に改正された選挙法によって選挙された。上院は国家評議会である。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ドゥーマ」の解説

ドゥーマ
Duma

帝政ロシア末期の国会の下院にあたる議会
1905年の第1次ロシア革命後,十月宣言で約束され,ニコライ2世によって1906年開設された。1917年のロシア革命まで4回開かれ,初めの2回は自由主義的傾向を示したが,首相ストルイピンによる選挙法の改正によって保守性が強化された。

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