ドイツ共産党(読み)ドイツきょうさんとう(英語表記)Kommunistische Partei Deutschlands

改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ共産党」の意味・わかりやすい解説

ドイツ共産党 (ドイツきょうさんとう)
Kommunistische Partei Deutschlands

ドイツの革命的マルクス主義政党。略称KPD(カーペーデー)。第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。

 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルクK.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。18年の十一月革命後,スパルタクスブントスパルタクス団Spartakusbundと改称,獄中にあった指導者の解放とともに機関紙《ローテ・ファーネRote Fahne》を発行して,社会民主党を批判,社会主義革命実現を掲げて活動した。一方,左翼急進派はボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)との連絡を持ち,大戦中から独自の党建設を主張した点に特色がある。革命後ドイツ国際共産主義者を称し,ブレーメンでの革命政府樹立を指導したが,両者とも組織基盤はなお弱体で革命の推移に大きな影響力は持たなかった。18年12月,スパルタクスブントが独立社会民主党から分離すると,両者は12月31日合同してドイツ共産党を創設した。

 ルクセンブルクら指導部はドイツ革命の長期的過程を想定していたが,党員の多くは当時の革命状況を過大評価し,国民議会選挙不参加を決定,19年前半の各地の蜂起に加わった。共産党は小勢力であったが,政府・ブルジョア層は革命の進展を阻止する観点から,あらゆる蜂起やゼネストをスパルタクスの名と結びつけ厳しく弾圧,19年1月にルクセンブルク,リープクネヒトが,3月にはヨギヘスLeo Jogiches(1867-1919)が反革命軍に殺害され,党は有能な指導者を失った。党内にはサンディカリストも含めたさまざまな潮流が存在しており,後継指導者レービPaul Levi(1883-1930)は19年10月の第2回党大会で組織拡大に重点を置いた指針を採用,反対派を排除した。党員は半減したが,党の統一は強化された。この間共産党は19年3月のコミンテルン設立に参加,その一員となり,ドイツ革命に期待するボリシェビキ指導者の指示をも受けることになった。

 20年12月,独立社会民主党のコミンテルン加盟に伴い,同党は共産党に合流,統一共産党が成立し,党員数36万の大衆政党となった。21年の三月行動の失敗でレービらが党を出たが,コミンテルンの大衆路線に従って統一戦線戦術を採った後,経済状況の悪化などもあって青年労働者を中心に勢力を拡大した。23年夏以降,革命情勢が到来したとの判断から共産党は蜂起を計画したが,これは11月に失敗,ブランドラー,タールハイマー指導部は失脚した。24年からの相対的安定期に入ると党内では路線対立が激化,コミンテルン,ソビエト連邦共産党内部の対立とも重なって,有力指導者の除名や路線の混乱が続いた。こうした事態はコミンテルンの介入を強める結果となり,ソ連共産党に範を取ったボリシェビキ化と呼ばれる組織改革やルクセンブルク的思想の批判がなされ,党の官僚化とソ連への従属が強まった。27年テールマンを議長とした左派と中間派の指導部が成立,翌28年,ベルリンメーデーでの警察との衝突やコミンテルンの左転回の後,社会民主党を主要敵とみなす社会ファシズム論による左派戦術が強められた。30年以降,大恐慌下で勢力を伸ばし,32年11月の国会選挙では600万票とこれまで最大の支持を集めた。共産党はナチスの危険性を認識してはいたが,左派戦術を変えなかったため,対応は一貫性を欠いた。党は中部ドイツやルールなど有力工業地帯に拠点を持ったが,労働組合や工場での足場が弱く,その活動力も結局社会民主党の壁を突破できなかった。

 ナチス政権成立後,33年2月国会放火事件が起きると,ナチスはこれを共産党の責に帰して弾圧を開始,テールマンをはじめ,有力活動家を逮捕,投獄し,3月には党そのものも非合法化した。党指導部はパリ,次いでモスクワに逃れ,35年ピークウルブリヒトらの指導の下に人民戦線戦術に転換したが,ドイツでは残存した党員グループが独自に反ナチス活動を遂行,大きな犠牲を払った。ソ連に逃れた者も少なからぬ数がスターリンの粛清の対象とされたが,自由ドイツ国民委員会などとともに反ファシズム活動に従事した。

 第2次大戦後,指導部の帰国によって旧党員を集め党の再建がなされたが,ソビエト占領区では46年4月社会民主党と合同してドイツ社会主義統一党(SED)が成立,以後ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家党の地位にあった。1989年11月のベルリンの壁開放後,改革とドイツ統一を求める国民運動が拡大するなかで,党内改革派を中心に統一党・民主的社会主義党と改名し,翌年2月正式にSEDから民主的社会主義党(PDS)に移行した。統一ドイツでは,連邦議会に議席を得ているが,支持基盤はもっぱら旧東ドイツ地域にあり,全国政党にはなっていない。西側地区に成立したドイツ連邦共和国政府(西ドイツ)は共産党を反憲法政党として訴え,56年5月連邦憲法裁判所はこれを認めて,党を禁止した。その後69年に連邦共和国で新たな名称(Deutsche Kommunistische Partei)の下にドイツ共産党が創設されているが,連邦議会に進出できない小勢力にとどまっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ドイツ共産党」の意味・わかりやすい解説

ドイツ共産党【ドイツきょうさんとう】

1918年末―1919年初頭スパルタクス団を中心に創立。創立直後ドイツ革命でR.ルクセンブルク,K.リープクネヒトらの指導者を失った。1921年の三月行動,1923年のハンブルク蜂起(ほうき)等で繰り返し敗北。大恐慌後大いにその勢力を伸張させたが,ナチス政権樹立後弾圧により壊滅。第2次大戦後東ドイツではドイツ社会主義統一党に発展したが,ドイツ統一後1990年民主社会党と改称。西ドイツでは1948年再建,1956年違憲団体とされ,1968年再発足。
→関連項目国会放火事件テールマンドイツ独立社会民主党ピークホーネッカーメーリングラデック

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ共産党」の意味・わかりやすい解説

ドイツ共産党
ドイツきょうさんとう
Kommunistische Partei Deutschlands; KPD

ドイツの政党。 1916年ドイツ社会民主党より脱退した K.リープクネヒト,R.ルクセンブルクによって組織されたスパルタクス団を前身とし,18年 12月 30日ブレーメン左派らと合体して結成された。 19年コミンテルンに加入,同年1月ベルリンにおいて武装蜂起したが鎮圧され,リープクネヒトとルクセンブルクは捕われて虐殺された。しかし翌 20年にはドイツ独立社会民主党左派と合同し,党員は5万から一挙に 35万へとふくれあがり,コミンテルンにおいてロシア共産党に次ぐ大支部となった。こうした党の拡大を基礎に 23年ハンブルク蜂起を組織したが,ドイツ革命を成功させることはできなかった。その後レーニン死後のコミンテルンにおける左翼主義,セクト主義的偏向のなかで,党の組織的な強化を行うことができないまま,33年2月 27日ナチスによって国会焼打ちの罪をかぶせられ,ヒトラー政権による徹底的弾圧を受けて地下活動を余儀なくされるにいたった。第2次世界大戦後の 46年4月 21日,東ドイツの共産党は社会民主党と合同し,ドイツ社会主義統一党 SED (→民主社会党 ) を結成,支配政党となった。一方西ドイツでは 48年4月 30日第1回協議会で M.ライマンを先頭とする指導部を選出して旧来の KPDの名称を保持し,52年 11月「ドイツ民族再統一の綱領」を採択した。しかし 53年非合法化され,さらに 56年には連邦憲法裁判所により党組織違憲判決を受けた。その後 68年 10月西ドイツの基本法を承認するドイツ共産党 Deutsche Kommunistische Partei (DKP) として創設された。 90年のドイツ統一の余波を受けて活動は低迷している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のドイツ共産党の言及

【ドイツ】より

…民衆は,こうした現実への怒りの中から,食糧騒動や山猫ストライキなど新しい行動性をくりひろげ,ついに18年11月には革命に立ち上がって第二帝制を倒し,各地に労働者・兵士評議会(労兵レーテ)を成立させた(ドイツ革命)。これに対して軍部・重化学工業界と社会民主党・労働組合は,反労兵レーテの〈共和国〉と労使協調の〈中央労働共同体〉とを軸として提携し,民衆の下からの行動性,またこの行動性を〈レーテ共和国〉の実現へと導こうとするドイツ共産党(スパルタクス団)と対決,これらを抑え込むことに成功する。そして,労働者を中心とした革命の展開に疎外感を抱いた都市・農村の中間層(そのうち,旧中間層には戦時の軍拡景気によってうるおった者も少なくなかった)の多くも,憲法制定国民議会の選挙や反革命義勇軍への参加を通して上記の方向に支持を与え,ここにワイマール共和国が成立する。…

【ドイツ革命】より

… 翌19年1月,ベルリンの革命派が,同派系の警視総監の罷免を契機にエーベルト政府打倒に立ち上がると,政府は,社会民主党系の労働者を動員する一方,義勇軍を投入してこれを鎮圧した(〈一月蜂起〉)。その中で,前年末スパルタクスブントにブレーメン等の左翼急進派が合流して結成されたドイツ共産党の指導者ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは虐殺された。2月ワイマールに招集された国民議会は,1月の選挙で38%の得票率を得た社会民主党のエーベルトを共和国大統領に選出,また,同党と自由主義左派の民主党,カトリックの中央党から成る〈ワイマール連合〉政府を成立させた。…

【ローテ・ファーネ】より

…ドイツ共産党の前身であるスパルタクス団およびドイツ共産党の機関紙。〈赤旗〉の意。…

※「ドイツ共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android