トルストイ(英語表記)Lev Nikolaevich Tolstoi

精選版 日本国語大辞典 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

[一] (Aljeksjej Konstantinovič Tolstoj アレクセイ=コンスタンチノビチ━) 帝政ロシアの詩人、劇作家、小説家。アレクサンドル二世の侍従武官を勤め、純粋芸術主義的・ロマン主義的傾向をもつ譚史、英雄抒情詩、歴史小説を書いた。代表作は「白銀公爵」「皇帝フョードル=ヨアノビチ」。(一八一七‐七五
[二] (Aljeksjej Nikolajevič Tolstoj アレクセイ=ニコラエビチ━) ソ連の作家。貴族の血をひき、はじめシンボリズムの詩人・作家として登場。革命後パリに亡命したが、一九二三年ソ連に復帰し、革命のなかに生きぬいた知識人の思想的遍歴を主題とした長編三部作「苦悩の中を行く」を完成した。(一八八三‐一九四五
[三] (Ljev Nikolajevič Tolstoj レフ=ニコラエビチ━) 帝政ロシアの小説家。ドストエフスキーとともに一九世紀ロシア文学を代表する。ヤースナヤ‐ポリャーナの名門の伯爵家に生まれ、農奴たちに同情し、有閑社会の生活を否定。既成の政治・社会・宗教・教育などに反抗して、当時のロシアの国家・社会の矛盾をリアルに描出し、ロシア文学の写実主義的伝統を受け継ぐとともに、求道的な内面の世界を描き、次々と大作を生み出して後代の作家に大きな影響を与えた。代表作は「幼年時代」「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」「クロイツェル‐ソナタ」など。杜翁。(一八二八‐一九一〇

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デジタル大辞泉 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語

トルストイ

Lev Nikolaevich Tolstoy》[1828~1910]ロシアの小説家・思想家。人間の良心とキリスト教的愛を背景に、人道主義的文学を樹立。晩年、放浪の旅に出て、病死。小説「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「復活」、戯曲「生ける屍」など。大トルストイ。杜翁とおう
中沢臨川によるの評伝。大正2年(1913)刊行。

トルストイ(Aleksey Konstantinovich Tolstoy)

[1817~1875]ロシアの詩人・小説家・劇作家。ロシア象徴派の祖と目され、叙情詩のほかに、多彩なジャンルで活躍した。歴史小説「白銀公爵」、史劇「皇帝フョードル=イワノビチ」「皇帝ボリス」など。

トルストイ(Aleksey Nikolaevich Tolstoy)

[1883~1945]ロシア・ソ連の小説家。革命後一時亡命。帰国後民族愛に満ちた作品を書いた。作「苦悩の中を行く」「ピョートル一世」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi
生没年:1828-1910

ロシアの小説家。伯爵家の四男として,母方ボルコンスキー公爵家の領地だったヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。トルストイ家は14世紀にロシアに来たドイツ人インドリスを祖とし,その子孫にはロシア史に残る人物も多い。母方も名門の家柄で,ロシア建国の祖リューリクとつながりがある。幼くして父母を失い,叔母たちの後見のもとで育てられたが,外国人家庭教師による教育,貴族の社交に必要な趣味・教養を十分に与えられ,富裕な地主貴族として安穏な生活を送れる境遇にあった。しかし生得の二元性,すなわち〈生きる喜び〉〈肉の衝動〉を肯定する感受性豊かな楽天的性格と激しい理性的・破壊的な自己反省のピューリタン的傾向が不安と動揺にみちた一生を彼にもたらした。またトルストイは,自ら語っているように〈自分自身に逆らってまでも,常々時流に乗じた勢力に抵抗する〉という性格をもっていた。〈一般的傾向〉を自分の自立性をおびやかすものと考え,それに抵抗することを自分の行動様式とした。

 カザン大学を中退し,農地経営に没頭するが,不首尾に終わると一転して,原始的でルソー的理想を実現しているかに見えるコサックのもとで軍人生活を送り,クリミア戦争(1853-56)に従軍,その戦争記録《セバストポリ物語》(1855-56)で国家的栄誉を得る。2度西ヨーロッパに旅行するが,文明の〈悪〉を実感,ついでルソー風の,〈自然〉に基づいた農民教育の仕事に力を注ぐ。1862年のソフィア・ベルスとの結婚は充実した創作活動の日々をもたらすが,その一方で内心の虚無感,生の無意味さという観念が彼の心を支配するようになる。〈生きる喜び〉をおびやかす死の恐怖がトルストイを根底からゆるがした。1879年に書き始められ,〈生きる喜び〉を欺瞞(ぎまん)として断罪した《懺悔(ざんげ)》(1882年ジュネーブで刊行)は,トルストイのいわゆる〈回心〉の劇的な表現であるが,これ以後,道徳家的な面が強く現れることになる。〈山上の垂訓〉に基づき,文明の悪に抗して,オプロシチェーニエoproshchenie(簡素な農民的生活を送ること)を理想とした合理的でピューリタン的でアナーキズム的性格の濃いキリスト教--いわゆるトルストイ主義--の教義が生まれた。彼の教義の中でも〈悪への無抵抗〉という考え方はロシア独特のものであるが,その弟子筋のガンジーによって結実したといえる。

 真実の探求者,伝道者として,世界はトルストイの主張に耳を傾けたが,家庭内で自らの主義を実践しようとして妻と衝突し,自分の教説どおりに晩年を過ごそうと家出をしたが,その行半ばにして,中央ロシアの寒村の駅アスターポボ(現在はトルストイと改称)で肺炎のため死亡。

 トルストイの処女作は進歩派の《現代人》誌に1852年に発表された《幼年時代》である。自伝三部作の第1部をなすこの作品は,そのみずみずしい感受性と心理的リアリズムで世人の注目をひいたが,続いていくつかの短編,中編を発表して文壇での地位を不動のものとした。その中でも《コサック》(1853-63)は,文明に対する自然の優位というトルストイの持説が物語の中に織りこまれているという点で,作品の中に思想家がはっきりと姿を現している最初の注目すべき作品である。芸術的創作期の頂点の2作品,《戦争と平和》(1865-69),《アンナ・カレーニナ》(1875-77)についても同様のことがいえる。前者では対ナポレオン戦争の歴史絵巻を背景として,トルストイ自身の精神的模索が2人の主人公アンドレイとピエールに投影されている。後者はロシア貴族の生活を描いた社会小説であるが,副主人公のレービンはまさにトルストイの分身であり,人生の意味を求めて苦悩するが素朴な農民の知恵によって救われることになる。

 《懺悔》によって示された〈回心〉以降のトルストイは,神学に関する論文や政治的・道徳的パンフレットに多大の精力を注ぎ,時代の焦眉の急の問題と深くかかわり,さまざまな時事的発言を行った。なかでも日露戦争批判は世界的反響を呼び,日本の社会主義者たちにも多大の感銘を与えた。しかしこの間もトルストイの創作力は衰えたわけではなく,死の実像にせまる傑作《イワン・イリイチの死》(1886),自然主義的な農民劇《闇の力》(1886),カフカスを背景にした力強い物語《ハジ・ムラート》(1896-1904)などが書かれた。訴えるべきテーマをもって書かれた,傾向性の強い《クロイツェル・ソナタ》(1890),《復活》(1899)のような作品でありつつ読者を感動させるのは,その芸術家的な創造力である。

トルストイが思想家,予言者として世界の注目を集めていた時期は,1880年代から1910年(トルストイの死んだ年)にわたるが,これは日本の明治10年代から明治43年にあたる。1886年(明治19)《戦争と平和》の第1編の抄訳が《泣花怨柳 北欧余塵》(森体訳)の題名で出版されたのを皮切りに,作品の紹介,翻訳,批評が続々と現れ,徳冨蘆花小西増太郎のようにヤースナヤ・ポリャーナを訪れる日本人も多くを数え,トルストイの一言一句,一挙手一投足が日本で話題の種となった。トルストイは日本人にとっては明治時代の〈日本の〉作家であるといってよい。トルストイ主義の忠実な信奉者であった武者小路実篤が語っているように,トルストイは単なる作家ではなく,思想家であり,人類の教師,人類の良心として尊敬され,その説く教義や主張は熱狂的に日本の読者によって受け入れられた。明治期にはキリスト教思想,社会主義思想の代表者,大正期には人道主義の予言者とみなされた。やがて文学や宗教思想の面ではドストエフスキー,思想・社会運動の面ではマルクス主義という強力なライバルが現れる。また高弟チェルトコーフVladimir G.Chertkov(1854-1936)によるトルストイの家庭悲劇の暴露(《晩年のトルストイ》,寿岳文章訳1926),1935年(昭和10)から37年にかけてのトルストイ日記の刊行によってトルストイの実像が赤裸々にさらされるに至る。日記の公表は,正宗白鳥と小林秀雄の〈思想と実生活〉論争を呼んだが,このころから従来のトルストイ崇拝のうわついた雰囲気が冷まされてくる。しかし社会主義全体への弾圧が強化されていく中で,拡散した無名のトルストイ主義者たちが,反戦思想を中心とするトルストイ的思想を第2次大戦中も守り続けたということにもみられるとおり,ヒューマニズムに徹し,理性,人道,調和の道を求めたトルストイの意義はいささかも小さくなっていない。
執筆者:

トルストイ
Aleksei Nikolaevich Tolstoi
生没年:1883-1945

ソ連邦の作家。詩集《空色の河のかなたに》(1908)で出発。十月革命前に《牧童》《女優》(ともに1910)など50余の短編のほか,長編《奇人たち》(1911),ドストエフスキーの影響の強い長編《びっこの公爵》(1912)などを発表して文名を確立した。革命後パリに亡命,短編《ピョートル大帝の1日》(1918),自伝的な中編《ニキータの幼年時代》(1922),SF仕立ての奇抜な小説《アエリータ》(1923)などを書く。1923年ソ連に戻って,推理小説の手法を用いた長編《技師ガーリンの双曲線》(1926),革命後の混乱した社会の中で生きる道を誤った女の悲劇を描く短編《毒蛇》(1928)などで作家としての力量を示した。

 代表作となったのは十数年かけて完成した大長編《苦悩の中を行くKhozhdenie po mukam》(1922-41)である。〈姉と妹〉(1922),〈1918年〉(1927-28),〈陰鬱な朝〉(1940-41)からなるこの作品は,革命を生きぬいた知識人の思想遍歴を聖母の苦難遍歴になぞらえて書いたもので,知識階級の三つの時期を描く。最初が20世紀初頭のデカダン派,シンボリスト,唯美派などの生活で,次が革命期,最後が国内戦とその結果である。彼はこの長編で第1次世界大戦,革命,国内戦,ウクライナアナーキスト,マフノの反乱などの歴史の嵐の中にまきこまれた美しい姉妹とその恋人とが,生命や思想の危機をのりこえてついに再会するまでの苦難の歴史を描いた。メロドラマ的な要素も多いが,この時期の知識人の精神史を知るには最適の作品である。膨大な歴史小説《ピョートル1世Pyotr I》(第1巻1929,第2巻1934,第3巻1944,第4巻未完)で彼は新しい高みを示した。

 ロシアを西欧化しようとしたピョートルは,同時にロシアのスキタイ精神をも愛した。トルストイは皇帝のこの両側面を描きわけ,〈聖なる祖国〉の歴史を新しい角度から示してみせた。彼の作品には常にある種の通俗性がつきまとうが,ソ連における第一級の物語作家であることに間違いはない。
執筆者:

トルストイ
Aleksei Konstantinovich Tolstoi
生没年:1817-75

ロシアの小説家,詩人,劇作家。アレクサンドル2世の皇太子時代の学友で,ロシア宮廷でも高い位置にあったが,早くから文筆に手を染め,1840年代には幻想小説《吸血鬼》を書き,今日青少年の愛読書となっている歴史小説《白銀公爵》(1861)を書き始めた。50年代にはコジマ・プルトコフの名で,従兄弟のジェムチュジニコフ兄弟と共同して,今日でも評価の高い一連の風刺詩,パロディ,ノンセンス詩を共作した。多才な作家であったが,自然や愛を主題とする抒情詩人として最もよく知られている。シェリングやドイツ・ロマン派の影響を受け,政治的には自由主義の立場を貫いた。60年代,官を辞してからは,おもに外国とウクライナの自分の領地で暮らし,韻文劇三部作《イワン雷帝の死》(1866),《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868),《皇帝ボリス》(1870)を書いた。この三部作は歴史劇の古典として今日もしばしば上演される。
執筆者:

トルストイ
Dmitrii Andreevich Tolstoi
生没年:1823-89

ロシアの政治家,伯爵。反動的政治で知られる。1850年代まではロシア皇帝ニコライ1世の子コンスタンティン大公を取り巻く自由主義的官僚グループに加わっていたが,60年代初めから〈強力な権力〉をめざすようになる。65-80年には宗務院長。66年より文相を兼任した。71年学制改革を行い,貴族層のための古典ギムナジウムを復活する。82-89年内相兼憲兵長官として一連の反動的政策を遂行した。とくに82年の検閲制度の強化,89年の地方主事制施行による中央権力の地方行政に対する支配力強化は有名である。82年科学アカデミー総裁に就任。《ロシアにおけるローマ・カトリシズム》(1876)などの著作もある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ

ロシアの作家。ドストエフスキーとともに19世紀ロシア文学を代表,トルストイ主義の名で知られる独自の思想家としても大きな影響を残した。伯爵家の四男としてツーラ近くのヤスナヤ・ポリャーナの広大な荘園に生まれ,カザン大学を中退後,軍務について,カフカスで処女作《幼年時代》(1852年)を書きあげ,文壇に認められた。以後《少年時代》(1854年),《青年時代》(1856年),《コサック》(1862年)などを発表,1862年に宮廷医の娘で18歳のソフィヤと結婚し,文筆活動に専念した。《戦争と平和》《アンナ・カレーニナ》などの大作はこの時期に生まれた。やがて宗教的思想に自身の内面の矛盾からの救いを求めるようになり,《懺悔》(1882年),《わが信仰》(1884年)その他の宗教論文,《イワンの馬鹿》などの民話で,悪に対する無抵抗の思想を説いた。1898年に発表した《芸術とは何か》では,自作品を含め,世界の大文学を全面的に否定するに至る。しかし,宗教的転機以後にも,《クロイツェル・ソナタ》(1890年),《イワン・イリイチの死》(1886年),戯曲《闇の力》(1886年)などの作品があり,1899年には三つめの長編《復活》を完成した。晩年はソフィア夫人との家庭的葛藤(かっとう)に苦しみ,1910年10月に家出して,アスターポボという小さな駅で没した。日本の近代文学には,特に白樺派を通じて多大な影響を与えた。
→関連項目江渡狄嶺ガルボルククラムスコイクロイツェル・ソナタ芸術至上主義菜食主義写実主義人文主義セバストポリ徳冨蘆花馬場孤蝶レオンチエフレーピン

トルストイ

ロシア,ソ連の作家。貴族の出身。象徴主義詩人として出発,《びっこの公爵》(1912年)などの小説で文名をあげた。革命後亡命,ベルリンで自伝的な《ニキータの幼年時代》(1922年),SF的な《アエリータ》(1923年)を書き,1923年に帰国後は歴史小説《ピョートル1世》(1929年―1945年)と,革命期の知識人の運命を描いた三部作長編《苦悩の中を行く》(1920年―1941年)でソビエト作家の地位を確立した。ほかに推理小説ふうの《ガーリン技師の双曲線》(1926年)など。

トルストイ

ロシアの詩人,劇作家。貴族の出身で,いとこのジェムチュジニコフと〈コジマ・プルトコフ〉の偽名で戯文を発表。小説に《白銀公爵》(1863年),戯曲に《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868年)など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルストイ」の意味・わかりやすい解説

トルストイ
Tolstoi, Lev Nikolaevich

[生]1828.9.9. トゥーラ,ヤースナヤポリャーナ
[没]1910.11.20. アスターポボ
ロシアの小説家。伯爵家に生れ,幼くして両親を失った。 1847年カザン大学中退。故郷に帰り,農民の生活改革を試みたが失敗。 51年カフカスで軍務についていた兄のもとに行き,美しい自然のなかで文学に開眼し,自伝3部作の『幼年時代』 Detstvo (1852) ,『少年時代』 Otrochestvo (54) ,『青年時代』 Yunost' (57) で新進作家としての地位を確立した。 57年最初のヨーロッパ旅行に出,ヨーロッパ文明に対する懐疑をいだいた。 62年結婚,文筆活動に専念し,二大名作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を完成した。宗教論文『懺悔』や,『イワンのばか』をはじめとする民話を書き,のちに「トルストイ主義」と呼ばれた思想に忠実な活動を行い,私有財産の否定,非戦論,非暴力主義を唱えた。ほかに小説『イワン・イリイッチの死』『クロイツェル・ソナタ』『復活』,戯曲『闇の力』などの文学作品を書いたが,最後まで安らぎは得られず,1910年家出,リャザン=ウラル鉄道の小駅,アスターポボ (現在のレフ・トルストイ駅) の駅長官舎で没した。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Nikolaevich

[生]1883.1.10. ニコラエフスク
[没]1945.2.23. モスクワ
ソ連の小説家。伯爵家に生れ,初め象徴主義的な詩を書いていたが,次第に 19世紀の写実主義の伝統に立戻り,『びっこの旦那』 Khromoi barin (1912) などの長編により小説家としての地位を確立。 1917年の二月革命を歓喜して迎えるが,十月革命に対しては批判的で,19年春,家族とともにパリに亡命,長編3部作『苦悩のなかを行く』の執筆を開始。しかし西欧資本主義の退廃に接し,祖国の土への郷愁にとりつかれて,23年に帰国。新生ソ連の生活を題材とした短編を書きはじめるが,ここでもネップ時代の卑俗な現実への幻滅を描いたため反革命作家と批判され,一時作品の発表を中断。その後歴史的テーマに関心を寄せ,未完の大著『ピョートル1世』 Pëtr I (29~45) ,戯曲『イワン雷帝』 Ivan groznyi (42~43) を書いた。

トルストイ
Tolstoi, Dmitrii Andreevich

[生]1823.3.13. モスクワ
[没]1889.5.7. ペテルブルグ
ロシアの政治家。伯爵。 1865~80年宗務院長としてロシア正教会を監督するとともに,非国教徒たる分離派に対してきびしい政策をとった。 66年より文相に就任し,大学の自治を制限したり,古典ギムナジウムを創設して,教育における反動政策を推進。 82~89年内相兼憲兵長官として,皇帝アレクサンドル2世暗殺後の反動政策に中心的役割を果し,貴族階級の特権擁護のために,ゼムストボ制度の手直しや革命運動の弾圧などを実施した。著書『ロシアにおけるローマ・カトリシズム』 Le catholicisme romain en Russie (2巻,1863~64) がある。

トルストイ
Tolstoi, Aleksei Konstantinovich

[生]1817.9.5. ペテルブルグ
[没]1875.10.10. クラスヌイログ
ロシアの小説家,劇作家,詩人。伯爵家の生れで,L.トルストイの遠い親戚にあたる。思想的には保守的ながらも,『ロシア国史』 Istoriya gosudarstva Rossiiskogo (1868) ,『ポポフの夢』 Son Popova (73) など腐敗した官僚制を風刺した詩や,歴史悲劇の3部作『イワン雷帝の死』 Smert' Ioanna Groznogo (66) ,『皇帝フョードル・ヨアーノビチ』 Tsar' Fëdor Ioannovich (68) ,『皇帝ボリース』 Tsar' Boris (70) などを残した。

トルストイ
Tolstoi(Tolstaya), Sonya(Sofia) Andreevna

[生]1844
[没]1919
ロシアの文豪 L. V.トルストイの妻。モスクワの医者ベルスの娘として生れ,1862年結婚。最初の 15年間は夫の手助けをし,13人もの子供をもうけて仲むつまじかったが,夫が文学から離れて宗教や社会活動に専念するようになると不和になり,たびたび別居した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828~1910

ロシアの作家。古い貴族の家柄に生まれた。軍隊に入って,カフカース戦争セヴァストーポリ籠城戦に参加し,その経験を作品とした。1856年軍籍を退いたあと,自分の領地において地主として暮らし,農業経営の改善や農民の教育に努めた。80年代から社会的発言を開始した。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの小説のほか,『イヴァンのばか』などの民話,さらに『懺悔』『さらばわれら何をなすべきか』などの宗教的作品をも執筆し,非暴力とキリスト教的隣人愛を骨子とする独自の社会哲学,平和主義を説いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「トルストイ」の解説

トルストイ
Lev Nikolaevich Tolstoi

1828〜1910
19世紀ロシア文学を代表する小説家
富裕な貴族の生まれ。カザン大学を中退して故郷に帰り,農民の生活改善に努力。1853年クリミア戦争に従軍し,その体験を『セヴァストーポリ物語』に書いて認められ,退官後は農奴解放や文学活動にはげんだ。専制国家の圧迫と社会悪に抗議し,社会悪の根源としての私有財産の否定に到達したが,その克服は暴力によってではなく,人間の道徳的再生によると考え,キリスト教的人間愛と悪への無抵抗を説いた。晩年は自己の現実生活と信念の矛盾に苦しみ家出したが,一寒村で病死。主著『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』『告白』『復活』など。

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世界大百科事典(旧版)内のトルストイの言及

【アンナ・カレーニナ】より

…ロシアの小説家レフ・トルストイの長編小説。1875‐77年刊。…

【児童文学】より


[旧ソ連邦]
 かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。…

【ドゥホボル派】より

…そしてロシア中央部からカフカスに強制的に移住させられ,1898年には約7500人がカナダに移住した。なお,かねてドゥホボル派の思想に共鳴していた文豪トルストイが,カナダ移住の費用を援助するため,ひとたび折った筆を再びとり,長編《復活》を書いたことはよく知られている。一部はキプロスに移った。…

【何をなすべきか】より

…この小説はロシアの幾世代もの青年たちを育てることになった。 1882年,トルストイは国勢調査の調査員としてモスクワの貧民街を訪れ,そこでの観察から始まる自分の思想の一大転換を《さらばわれら何をなすべきかTak chto zhe nam delat’》に書いた。これは86年に脱稿される。…

【非戦論】より

…そして,04年8月第二インターナショナル第6回大会に出席した片山潜とロシア代表プレハーノフは反戦を誓いあって握手を交わした。 また,トルストイが《ロンドン・タイムズ》(1904年6月27日)に寄稿した非戦論,《爾曹悔改めよ》は《平民新聞》(1904年8月7日)に〈トルストイ翁の日露戦争論〉として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。《平民新聞》は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は〈人々真個の宗教を喪失せるが為〉ではなく,〈列国経済的競争の激甚なるに在り〉とした。…

【復活】より

…ロシアの作家L.N.トルストイの長編小説。友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話に基づき,1889年《コーニの話Konevskaya povest’》という表題で書き始められた。…

【平和】より

…彼はメキシコとの戦争や奴隷制に反対し,納税を拒否したため投獄されたこともある。ロシアではL.N.トルストイがクリミア戦争以来反戦平和を唱え,日本を含む世界中に影響を与えた。インド独立運動の指導者であったM.K.ガンディーもソローとトルストイの反戦思想を賞賛した。…

【ヤースナヤ・ポリャーナ】より

…ロシア連邦,モスクワの南方約190kmにある,L.N.トルストイの生地。ロシア語で〈明るい森の中の草地〉の意であるが,ヤースナヤは,トネリコの木を意味するヤーセンナヤyasennayaのなまりで,広葉樹を主体とする土地柄をよく現している。…

【唯美主義】より

…ルネサンスの建築家アルベルティは《建築論》の中で,美は部分と部分の調和ある有機的な相互関係である,と規定した。19世紀ロシアの作家L.N.トルストイは,唯美主義を否定しR.ワーグナーやR.シュトラウスを批判した《芸術とは何か》(1898)において,〈ルネサンス時代のカトリック教会の腐敗で信仰が失われた〉とルネサンスを否定したが,これは反唯美主義が本質的には西欧近代の否定に通じることを示している。これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。…

※「トルストイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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