日本大百科全書(ニッポニカ) 「トスカナ」の意味・わかりやすい解説
トスカナ
とすかな
Toscana
イタリア中部の州。面積2万2992平方キロメートル、人口346万0835(2001国勢調査速報値)。フィレンツェ、ルッカ、ピサ、リボルノ、アレッツォ、ピストイア、シエナ、グロッセート、マッサ・カッラーラ、プラートの10県からなる。州都はフィレンツェ。アペニン山脈とティレニア海に挟まれた丘陵地状の地方で、平野部はアルノ川流域の沖積平野およびかつての湿地帯マレンマなどに限られている。丘陵地帯では、中世とりわけコムーネ(自治都市)時代以来、メッツァドリアとよばれる折半小作制が支配的な農業制度としての地位を占め、それと関連して、穀物とブドウ、オリーブなどの樹木を同一の耕地で栽培するという混合耕作が典型的な農村の景観をつくってきた。しかし、第二次世界大戦後、折半小作制は急速に衰退し、混合耕作にかわっていくつかの地域ではブドウの専門畑が増大している。特記すべき産業としては、キアンティ地方のワイン、カッラーラの大理石、エルバ島の鉄鉱石、アミアータ山一帯の水銀、プラートの毛織物工業、ピオンビーノの製鉄業、リボルノの石油精製、ピサやエンポリのガラス工業、硼砂(ほうしゃ)の噴気孔を利用したラルデレロの地熱発電などがあげられる。
[堺 憲一]
歴史
古くはラツィオ州北部をあわせてエトルリアとよばれ、紀元前9世紀ごろからエトルリア文明の中心舞台として栄えた。前3世紀にローマの支配下に入り、ディオクレティアヌス帝(在位284~305)の時代にはトゥスキアTusciaという名称が与えられた。568~774年には、ルッカを首都とするランゴバルド人の一公国となった。12世紀ごろからはコムーネの著しい発達がみられ、とくにピサ、ルッカ、シエナ、やや遅れてフィレンツェなどの都市が繁栄した。これらの都市は周辺の農村を従属下に置き、さらには商工業や銀行業を通じて国際的にもきわめて重要な経済的機能を果たした。その過程で蓄積された富は、のち14~16世紀にトスカナを一大中心地として展開されるルネサンスの経済的基盤となる。その一方で都市相互の抗争が絶え間なく繰り返され、フィレンツェが徐々に同地方のヘゲモニー(覇権)を獲得していった。1434年にフィレンツェの実権を握ったメディチ家が、1569~1737年トスカナ大公として同地方を統治する。その後18世紀末には、ロレーナ王朝のピエトロ・レオポルドのもとで啓蒙(けいもう)的改革が実施された。1860年3月、住民投票によってサルデーニャ王国に併合され、1861年イタリア王国に統一された。
[堺 憲一]