改訂新版 世界大百科事典 「デリーサルタナット」の意味・わかりやすい解説
デリー・サルタナット
Delhi Sultanate
北インド一帯を支配したイスラム諸王朝。デリーに都を置き,ムスリムの君主(スルタン)が支配したため,この名称で呼ばれ,デリー・スルタン朝,デリー諸王朝とも総称される。普通,歴史的には奴隷王朝(1206-90)に始まり,ハルジー朝(1290-1320),トゥグルク朝(1320-1413),サイイド朝(1414-51),ローディー朝(1451-1526)までの5王朝,320年間を指していうが,その語の意義上からは,スール朝(1538-55),ムガル帝国(1526-38,1555-1858)までも含んでよい。
前述の5王朝についていえば,最後のローディー朝のみがアフガン系の君主で,他の4王朝の君主はすべてトルコ系である。このように,中央アジア,アフガニスタン出身の部族からその君主が出ているが,支配集団の全員が,そうした外来の部族出身の者によって占められていたわけではない。また支配集団はムスリムを中心にしていたが,現実におけるその支配は,地方の在来のヒンドゥーの有力層と結合して行われたのであって,イスラムの支配理念のままに支配が貫徹されたわけではない。
君主権の強さや支配領域の大きさは時代によってかなりの差があり,一概にはいえない。ハルジー朝のアラー・ウッディーン(在位1296-1316)の時は,短期間ながら君主権も支配領域も最大となり,ムスリムの軍が初めて南インド征服を行い,その後のデカン,南インドに大きな影響を与えた。また,トゥグルク朝のムハンマド・ブン・トゥグルク(在位1325-51)の時にも,南インドにまで支配が及び,大帝国となった。彼の時代のデリーや,インドの他の情勢については,大旅行家のイブン・バットゥータがその旅行記で詳しく記している。ムハンマドはデカン,南インド経営のため,現在の西デカンのアウランガーバード付近に,ダウラターバードDaulatābād(〈富の町〉の意)の大城塞を築いたことでも知られている。
トゥグルク朝が弱体化した時,1398年,ティムールの軍がデリーにまで侵入し,北インドは政治的混乱に陥った。このころは,デリー政権は名ばかりの一地方政権となり,各地にムスリムの独立政権が生まれた。ティムールによってパンジャーブの統治権をまかされたヒズル・ハーンKhizr Khān(在位1414-21)がデリーに政権を立てたのがサイイド朝であるが,この王朝は君主権が弱く,デリー周辺の支配王朝にすぎなかった。5王朝最後のローディー朝は,アフガン系貴族の連合政権といった性格をもち,君主は貴族連合体の代表的存在で,君主権は強いとはいえない。
この5王朝時代には,ムスリムの大建築物が造営された。その代表的なものは,スーフィー聖者の墓,聖廟や,それに付属する廟内の集会場,修道場,モスクなどである。また,それぞれの君主が造営させた城塞,自らの墓,聖廟などがある。たとえば,デリーに現存する,3人のスーフィー聖者,クトゥブッディーン,ニザームッディーン,ナシールッディーンのダルガー(聖廟)は有名である。
執筆者:小名 康之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報