デュポンドヌムール(英語表記)Pierre Samuel Dupont de Nemours

改訂新版 世界大百科事典 「デュポンドヌムール」の意味・わかりやすい解説

デュポン・ド・ヌムール
Pierre Samuel Dupont de Nemours
生没年:1739-1817

フランスの経済学者,政治家。はじめ医学を学んだが,のち経済学に転じ,ケネー弟子として重農学派経済学の発展と普及に努めた。同学派の機関誌《農業,商業,財政評論》や《市民日誌》の編集にあたり,ケネーの著作の編集と解説をした《重農主義》2巻(1767,68)を刊行したほか,みずからも多数の著書論文を発表した。経済学者としては,必ずしも独創的な理論家とはいえないが,穀物取引の自由の経済的意義を明らかにした点で功績があった。革命以前から友人チュルゴを補佐して自由主義的改革に尽力したが,フランス革命期には,憲法制定議会の議員として財政および租税制度の改革に努め,一時投獄されていたが,総裁政府のもとで元老院議員となり,しばらくアメリカ合衆国に滞在したのち,ナポレオンのもとで国務顧問官になった。1815年に再びアメリカに渡ってそこで没した。彼の息子の一人エリュテール・イレネは化学者で,革命中にアメリカに亡命して1802年に火薬製造会社を設立したが,これがのちにアメリカ最大の化学工業会社に成長し,デュポン財閥になった(デュポン・ド・ヌムール会社)。
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世界大百科事典(旧版)内のデュポンドヌムールの言及

【重農主義】より

…18世紀の後半,フランス絶対王政は,特権的独占商人や奢侈品(しやしひん)工業の保護育成を中心とするフランス型重商主義政策(コルベルティスムcolbertisme)や,金融政策を中心とする商業主義(ジョン・ローの体制)によって,経済的にも財政的にも破綻(はたん)に(ひん)し,体制的危機に直面した。その再建策として大農経営の発展を提唱したF.ケネーを創始者とし,その自然法思想や政策的主張や経済学説を祖述し発展させたV.R.ミラボー(ミラボー侯),P.S.デュポン・ド・ヌムール,メルシエ・ド・ラ・リビエール,A.N.ボードー(ボードー師),G.F.ル・トローヌ,A.R.チュルゴなどを代表者とする一団の経済学者に共通する経済思想・政策的主張・理論体系を一括して示す名称。重農思想の先駆者としてはケネーよりも前に,17世紀から18世紀初めにかけて活躍したP.Le P.ボアギュベール,J.ボーダン,R.カンティヨンなどをあげることができるが,ケネーは単なる農業重視ではなく,資本制的大農経営を重視した点で決定的に異なっている。…

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