デュポン・ド・ヌムール(英語表記)Du Pont de Nemours, Pierre Samuel

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デュポン・ド・ヌムール」の意味・わかりやすい解説

デュポン・ド・ヌムール
Du Pont de Nemours, Pierre Samuel

[生]1739.12.14. パリ
[没]1817.8.6. デラウェア,ウィルミントン近郊
フランスの経済学者,政治家。 F.ケネーに経済学を学び,その影響を受けて重農主義唱道,長い政治活動においても一貫して重農主義を固守した。自由貿易を論じた『穀類輸出入』 De l'exportation et de l'importation des grains (1764) によって A.テュルゴーの知遇を得てその経済改革を助け,またイギリスとの通商条約締結にも尽力した功績によって貴族に列せられた (86) 。テニスコートの誓いの促進者の一人としてフランス革命の初期に重要な役割を果し,アッシニア (フランス革命時の紙幣) 発行,戦争,暴力,暴政に反対したが,恐怖時代,執政内閣時代を通じて再度逮捕,投獄され,1800年には2人の息子エルテール,ビクトルとともにアメリカに渡った。2年後フランスに帰り,パリ商工会議所副会頭などをつとめ,ブルボン王朝復興にタレーランを補佐して仮政府の事務総長,国家参議となったが,百日天下の間に再びアメリカに渡り,そこに没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デュポン・ド・ヌムール」の意味・わかりやすい解説

デュポン・ド・ヌムール
でゅぽんどぬむーる
Pierre Samuel du Pont (Dupont) de Nemours
(1739―1817)

フランスの経済学者。若くしてケネーにみいだされて重農主義経済学の啓蒙喧伝(けいもうけんでん)に努めた。1765~66年の間『農業・商業・財政雑誌』Journal de l'agriculture, du commerce et des financesの、また68~72年の間『市民日暦』Éphémérides du citoyenの編集にあたり、経済学論争を進める重要な役割を果たした。1767年には『フィジオクラシー』Physiocratieと題するケネー著作集を編纂(へんさん)し、彼の命名になるこの題名(自然の統治という意味)を重農主義の学術名として定着させた。彼自身の理論的貢献は少なく、ケネーの「純生産物」の理論や商工業階級を不生産的とする考え方をあまりに機械的に主張してチュルゴーに批判された。穀物貿易自由論の代表者であったが、その観念的な適用は1786年の英仏通商条約の失敗を引き起こした。

[津田内匠]

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百科事典マイペディア 「デュポン・ド・ヌムール」の意味・わかりやすい解説

デュポン・ド・ヌムール

米国実業家。フランスの重商主義経済学者P.S.デュポン・ド・ヌムール〔1739-1817〕の子で,王室火薬工場に入り,のち父の印刷工場を経営。フランス革命中に米国に亡命。1802年デラウェア州にデュポン火薬工場を創設し,のち総合化学企業体に発展させた。→デュポン財閥
→関連項目デラウェア[州]

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