デクラーク(読み)でくらーく(英語表記)de Klerk, F. W.

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デクラーク」の意味・わかりやすい解説

デクラーク
でくらーく
Frederik W. de Klerk
(1936―2021)

南アフリカ共和国の政治家で、白人体制最後の大統領。ヨハネスバーグ市生まれ。ポッチェフストローム大学を卒業。弁護士を経て、1972年国民党(NP)の国会議員だった父の後を継いで政界に入った。党内民主主義を唱えて和を重んじ、1978年には郵政相就任。1982年に内相、NPの旧トランスバール州代表にも選ばれ、1984年から国民教育相兼白人閣僚評議会議長を務めた。1989年2月、脳卒中で倒れた大統領ボータ後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月の大統領選挙人団(人種別三院制議会の議員で構成)による選挙で正式に大統領に選出された。現実的な柔軟路線をとり、黒人指導者たちとも積極的に接触アパルトヘイト人種隔離)体制の解体に大きな役割を果たした。1994年5月、マンデラ政権の第二副大統領に就任したが、1996年6月末辞任。1997年9月NP党首を辞任、政界から引退した。1992年(平成4)6月に来日。1993年にノーベル平和賞受賞した。

[奥野保男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デクラーク」の意味・わかりやすい解説

デクラーク
de Klerk, F. W.

[生]1936.3.18. ヨハネスブルク
[没]2021.11.11. ケープタウン
F.W.デクラーク。南アフリカ共和国の政治家。大統領(在任 1989~94)。フルネーム Frederik Willem de Klerk。南アフリカ共和国における人種差別のない民主主義確立への貢献が評価され,1993年にネルソンマンデラとともにノーベル平和賞を受賞した。政治家の家系に生まれ,1958年にポチェフストルーム大学で法律の学位を取得。弁護士事務所を構え,市民権と商法の分野で頭角を現した。1972年に母校の国内法の教授に推薦されたが,同 1972年に国民党から立候補して当選したため,政治家の道を選ぶ。法律家としての経歴を買われ,鉱業大臣,内務大臣,国民教育大臣などを歴任。1989年に病気の P.W.ボータ大統領に代わって国民党党首となり,大統領に就任した。就任とともに改革路線の促進と,民主化へ向けた四つの人種の代表との対話の推進を表明し,1991年アパルトヘイト諸法の廃止を実現した。同時に政治犯の釈放を進め,1990年にはアフリカ民族会議 ANCと共産党を合法化して,マンデラを釈放した。1992年に白人有権者の信任投票で勝利し,民主化をさらに推進した。1994年,初めて全人種が参加した選挙で ANCに敗れたが,のちにマンデラ政権に加わり,副大統領に就任。1996年に副大統領を辞任し,1997年に国民党党首を辞任して政界を引退。マンデラとは民主化の過程でときに敵対しつつ粘り強い交渉を重ねた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「デクラーク」の解説

デクラーク
Frederik Willem de Klerk

1936~

南アフリカ共和国アフリカーナー政治家。弁護士をへて政界入りし,1989年国民党党首,大統領(在任1989~94)。黒人との権力分有の道を敷き,94年マンデラ政権の第2副大統領。93年マンデラとともにノーベル平和賞を受賞。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「デクラーク」の解説

デクラーク
Frederik Willem De Klerk

1936〜  
南アフリカ共和国の大統領(在任1989〜94)
アパルトヘイトの解決につとめ,1990年にアフリカ民族会議(ANC)を合法化し,投獄されていた議長のマンデラを釈放,91年にはアパルトヘイト諸法を全廃した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android