ティームール帝国(読み)てぃーむーるていこく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ティームール帝国」の意味・わかりやすい解説

ティームール帝国
てぃーむーるていこく

中央アジアにティームールが創建した国(1370~1507)。モンゴル帝国がチンギス・ハンの死後も数十年にわたって統一を維持したのに反し、ティームールの死後、急速に衰退した。その原因の一つは後継争いである。ティームールは長子ジャハーンギールの子ピール・ムハンマドを後継者として指名してあったが、その遺言は守られず、ティームールの第3子ミーラーン・シャーの子ハリール・スルターン王位についた。彼がクーデターにより退位させられると、ティームールの第4子シャー・ルフが即位し、首都をいまのアフガニスタン西部のヘラートに移し、自分の子ウルグ・ベクをサマルカンドの太守に任じた。一方、ハリール・スルターンの弟の子アブー・サイードはサマルカンドを都として、マーワラー・アンナフル(アムダリヤ以北)を掌握、シャー・ルフ死後、ヘラートをもあわせた。彼はティームール時代の領土の回復を計ったが、トゥルクマーンの白羊朝(アクコユンル)と戦って敗れ、捕らえられて殺された。その後ティームール帝国は分裂し、マーワラー・アンナフルとヘラートの二地域を維持するにすぎなくなった。そして草原の新しいトルコ系遊牧勢力ウズベク人のシャイバーニー・ハンの侵入を受け、サマルカンド政権、ヘラート政権はそれぞれ1500年、1507年に滅んだ。

 ティームールの死後、統一はならなかったが、文化的には著しい発展がみられ、トルコ語、ペルシア語イスラム教による中央アジア文化の最高水準を示した。ヘラートにおいてフサイン・バーイカラーが学問、芸術を保護した。彼のもとで、イスラム世界最高の画家ビフザード、チャガタイ・トルコ語による文学を確立したミール・アリー・シール・ナワーイー、ペルシア古典文学の完成者ジャーミーなどが活躍した。

[勝藤 猛]

『野間英二著『ティムール朝の社会』(『岩波講座 世界歴史8 西アジア世界』所収・1969・岩波書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android