チューリンゲン(英語表記)Thüringen

精選版 日本国語大辞典 「チューリンゲン」の意味・読み・例文・類語

チューリンゲン

(Thüringen) ドイツ中部の地方名。ゲルマン民族大移動の際にチューリンゲン族が定着。六世紀にフランク領となってから、諸家の領地となり、一八一五年プロイセン王国に合併された。エルフルトゴータイエナゲーラアイゼナハなどの都市がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「チューリンゲン」の意味・わかりやすい解説

チューリンゲン
Thüringen

中部ドイツの地方名であり,ドイツ統一後に旧東ドイツのエルフルト,ズール,ゲーラ3県を合わせて創設された州(ラント)名。州の面積は1万6171km2,人口は229万(2007),州都はエルフルト。チューリンゲンの森とその北に広がるチューリンゲン盆地をもって構成され,ゲーラ川,ザーレ川,ウェラ川が貫流する。穀物,野菜,果実,テンサイを産し,とくにエルフルト地方の花卉園芸,野菜園芸,採種業は世界的に有名。一方,工業化も進み,エルフルト地方では電気機器,機械,車両工業,アポルダ,ゲーラ,グライツでは繊維工業がみられる。とくにズール地方のカリ鉱業,イェーナ市にあるツァイス工場の双眼鏡,顕微鏡,天体望遠鏡その他の精密機器が有名。イェーナでは光学機器のための特殊ガラス,耐熱ガラス(イェーナ・ガラス)がつくられ,イェーナの南にあるカーラの陶磁器工場,シュワルツァの人絹工場も重要である。工業的に重要な都市はアイゼナハからゴータ,エルフルト,ワイマールを経てアポルダに至る鉄道線路に沿ってあり,これらはそれぞれドイツの歴史上,重要な役割を演じた都市である。ほかにミュールハウゼン市が中世の帝国都市として著名である。

この地にチューリンゲン族が定着したのは,民族大移動期の5世紀初めのことで,この地方をやや超えた規模の王国を建てたが,一時フン族のアッティラ王に従属した。531年フランク族とその同盟者であるザクセン族によって征服され,634年までフランク王の直接支配下にあった。同年フランク王ダゴベルト1世は部族代表ラドルフ1世をチューリンゲン公に任命し,彼のもとでチューリンゲン族は事実上の独立を回復した。彼らが再びフランクの支配下に入るのは8世紀初頭カール・マルテルのときで,彼は公位を廃し,この地をいくつかの伯領に分割した。8世紀初頭にはまた聖ボニファティウスによるキリスト教化がすすみ,エルフルトに司教座が置かれた(ただし,この司教座はのちマインツ大司教座に吸収合併された)。次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。

 チューリンゲンに新しい権力が樹立されるのは11世紀半ばであった。フランケンのライネッケ伯の支族で,居城シャウエンブルクを出身地とするルドウィング家が台頭し,同家のルートウィヒ髯(ひげ)侯は結婚と買収によってこの地の大部分を領有するにいたった。彼の死後(1056),その息子ルートウィヒ飛翔侯は,叙任権闘争にさいして皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン諸公国の反乱と行動をともにした。彼のとき,本拠としてアイゼナハの近傍にワルトブルク城を築いている。

 彼の息子ルートウィヒは,1130年皇帝ロタール2世よりチューリンゲン方伯に叙せられ,37年グーデンスベルク家のヘドウィヒと結婚して,ヘッセン地方の大部分を得た。彼のあとを継いだルートウィヒ2世峻厳侯Ludwig Ⅱ Eiserne(1128ころ-72)は,皇帝フリードリヒ1世の妹ユーディットと結婚し,同帝とザクセン公ハインリヒ獅子公の対立にあたっては,もっぱら皇帝側の前衛として活躍した。次のルートウィヒ3世敬虔侯は,57年皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に随行し,ハインリヒ獅子公との関係決裂にさいしては皇帝を助け,また第3回十字軍に参加して,90年帰途キプロスで死んだ。そのあとを弟のヘルマン1世HermannⅠ(1155ころ-1217)が継ぐが,彼は文芸愛好の君主として知られ,ドイツ中世吟遊詩人の代表者であるワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ,ウォルフラムエッシェンバハの)などが彼の宮廷のあるアイゼナハを訪れ,13世紀半ばに成立した長編抒情詩《ワルトブルクの歌合戦》は,中世チューリンゲン文化の全盛期をしのばせるものがある。13世紀初頭の方伯ルートウィヒ4世Ludwig Ⅳ der Heilige(1200-27)は,ハンガリー王の娘,聖エリザベートと結婚したが,皇帝フリードリヒ2世に従って第5回十字軍に出征し,オトラントで死去した。この若い伯の死は大きな衝撃を与え,のち聖者と仰がれ,《聖ルートウィヒの十字軍行》という韻文詩にうたわれた。ルドウィング家の家系は彼ののち2代ほど経て,1247年に絶える。

 相続争いののち,チューリンゲンは1263年マイセン方伯ハインリヒ3世(ウェッティン家Wettiner)の手に帰す。彼の息子アルブレヒトは,93年その領地を国王アドルフ・フォン・ナッサウに売却したが,アルブレヒトの子フリードリヒ無怖侯はこの移転に疑義を唱え,アドルフとその相続者アルブレヒト1世と争い,これを1307年撃破し,領地を取り戻した。彼の相続者たちは,地域内の中・小領主を抑えてその権力を拡大はしたが,しかし,強固な領邦国家を築くまでには至らなかった。なお,同家の手で,92年エルフルト大学が設立されている。ウェッティン家は,ザクセン選帝侯位を得たが,1485年アルベルト家系とエルンスト家系に分かれ,チューリンゲンの大部分は後者の領有に移った。

 16世紀に入って,チューリンゲンはドイツ農民戦争の中心の一つとなった。ミュンツァーが,1525年4月,ミュールハウゼン市を中心として農民を組織し,同市の市民・農民合同団をはじめ,フルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦が焼き払われた。ヘッセン方伯フィリップらの封建軍がチューリンゲンに進撃し,フランケンハウゼンの戦で農民軍を撃破したのは同年5月15日のことである。5月26日ミュールハウゼン市は陥落し,27日ミュンツァーらが処刑されて,一揆は鎮圧された。

 18世紀には,チューリンゲンはドイツ文化の中心となる。16世紀末からザクセン公の首府がワイマールに移されるが,カール・アウグスト公(1775-1828)のとき,宰相としてゲーテが招かれ,そのもとにシラー,ヘルダーなどが集まり,ドイツ古典文化の黄金時代を現出した。第1次世界大戦ののち,1919年2月ワイマールに国民議会が召集され,いわゆるワイマール憲法が制定されたのは,こうした自由の伝統の現れといえよう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チューリンゲン」の意味・わかりやすい解説

チューリンゲン
Thüringen

ドイツの歴史的地方名。ドイツの中央部にあり,東はベラ川から西はザーレ川に及び,北はチューリンゲン森の山地から南はハルツ山脈のふもとにわたる。アイゼナハ,ゴータ,エルフルト,ワイマール,イェナなどの都市を含む。地名はゲルマンの一部族チューリンゲン人に由来する。9世紀にカルル1世 (大帝)によって,スラブ人に対する防衛線としてマルク伯領が設けられた。中世末期にウェッティン家のザクセン公国の一部となったが,16世紀以来分割相続によっていくつかの小公国に分裂。そのいくつかはドイツ連邦,第二帝国にも存続した。第2次世界大戦後はソ連占領地区となり,その後東ドイツの一部となり,1952年以降は,エルフルト,ズール,ゲーラ,ライプチヒ各県に分割された。 M.ルターやバッハらを生み出し,ザクセン=ワイマールは古典文学の中心となるなど,文化史的にも重要。

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百科事典マイペディア 「チューリンゲン」の意味・わかりやすい解説

チューリンゲン

ドイツ中央部の地方名,州名。州都はエルフルト。肥沃な農業地で,カリ塩,岩塩なども産するチューリンゲン盆地を中心に,北西にハルツ山地,南西にチューリンガーワルト(チューリンゲンの森)がある。冬季スポーツの中心で,観光・保養地。16世紀にはドイツ農民戦争の中心,18世紀にはドイツ文化の中心となった。面積1万6173km2。216万840人(2013)。

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