日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
チューリンゲン(ドイツの地名)
ちゅーりんげん
Thüringen
中部ドイツの地方名。旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)南西部の、エルフルト、ズール、ゲーラ3県に相当した。1946~52年は同国の一州であった。チューリンゲンの森とその北に広がるチューリンゲン盆地からなり、ゲーラ川、ザーレ川、ウェラ川が貫流している。面積1万5209平方キロメートル、人口253万1400(1983)。農業地帯で、エルフルト県の花卉(かき)園芸、野菜園芸、採種業は世界的に有名。中央を東西に貫く鉄道幹線に沿って、西からアイゼナハ、ゴータ、エルフルト、ワイマールと都市が連なり、そこに電気機器、機械、車両工業が発達した。ほかにズール県のカリ鉱業、ゲーラ県イエナ市にある光学機械製造会社ツァイスの双眼鏡、顕微鏡、天体望遠鏡などが有名である。
[瀬原義生]
歴史
この地にチューリンゲン人(地方名はこの民族名に由来する)が定着したのは、民族移動期にあたる5世紀初めのことである。チューリンゲン王国は531年フランク人によって征服されたが、その後事実上の独立を回復し、8世紀初めフランクの宮宰カール・マルテルはふたたびチューリンゲンを征服しなければならなかった。8世紀初めには聖ボニファティウスによるキリスト教化も進み、エルフルトに司教座が置かれた(のち、マインツ大司教により吸収される)。カール大帝はザーレ川をスラブ人に対する防衛線と定め、チューリンゲンを辺境伯領としたが、その後のドイツ人の東方進出により、この地は完全な内陸地と化し、とくに10世紀にここを領有するに至ったザクセン公(リウドルフィング家)が神聖ローマ皇帝となると、皇帝領の中核となった。
11世紀になると、新しい権力者が出現する。フランケン地方出身のルドウィング家が進出し、ルートウィヒ髯(ひげ)侯は結婚と買収によってこの地の大部分を得た。同家は1130年皇帝ロタール2世によりチューリンゲン方伯に叙せられている。12世紀後半に入ると、同家は皇帝家であるシュタウフェン朝と姻戚(いんせき)関係に入り、皇帝のために働いている。たとえば1172年方伯となったルートウィヒ3世(敬虔(けいけん)侯)は、皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)に随行してイタリア遠征に参加し、皇帝とザクセン公ハインリヒ(獅子(しし)公)の関係が決裂するや、皇帝の前衛として活躍し、また第3回十字軍に参加して1190年キプロスで死んだ。その後を継いだヘルマン1世は文芸愛好の君主として知られ、ドイツ中世吟遊詩人の最高峰ワルター・フォン・デァ・フォーゲルワイデらが彼の宮廷ワルトブルク城(アイゼナハ近傍)を訪れ、13世紀なかばにはこの史実に題材を得て、長編叙情詩『ワルトブルクの歌合戦』が編まれている。13世紀初頭の方伯聖ルートウィヒは、ハンガリー王の娘、聖エリザベートと結婚したが、皇帝フリードリヒ2世に随行、第5回十字軍に参加してオトラントで死去し、のち聖者と仰がれた。ルドウィング家の家系は、彼ののち2代を経て、1247年に絶える。
その後は、マイセン方伯(ウェッティング家)がチューリンゲンを領有し、さらに1440年にはその領有権はザクセン選帝侯家(エルネスティン家系)に移り、1815年プロイセン王国に併合された。
1525年トマス・ミュンツァーによって組織されたチューリンゲン農民戦争、18世紀後半ワイマールの宮廷を舞台として、ゲーテ、シラーによって展開されたドイツ古典文化の全盛、1919年制定されたワイマール憲法などは、いずれもチューリンゲン地方に培われた自由の伝統を物語るものであろう。
[瀬原義生]