チャールキヤ朝(読み)チャールキヤちょう(英語表記)Chālukya

改訂新版 世界大百科事典 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説

チャールキヤ朝 (チャールキヤちょう)
Chālukya

インドのデカン地方に覇をとなえた王朝で,いくつかの系統に分かれる。主要な系統はバーダーミBādāmi,カルヤーニKalyāṇi,東チャールキヤの三つで,前2者を併せて西チャールキヤ朝と呼ぶ場合もある。

 バーダーミのチャールキヤ朝(前期西チャールキヤ朝)は,プラケーシン1世Pulakeśin Ⅰによって6世紀半ばにバーダーミを都として始められ,8世紀中葉まで存続した。2代,3代の王キールティバルマン1世Kīrtivarman Ⅰ,マンガレーシャMangaleśaは初代の子で,王朝の版図を拡大したが,王位継承をめぐって内乱が生じると2代王の子プラケーシン2世が610年ころ叔父マンガレーシャを殺して内乱を鎮定し王位に就いた。王はカダンバ朝を征服し,当時北インドで強大であったハルシャ・バルダナのデカン進出を阻止するなど,四方の勢力を支配下に置いて王朝の基盤を確固たるものにした。東方の征服地アーンドラ地方には,弟のビシュヌバルダナViṣṇuvardhanaを派遣してこれを治めさせ,さらに南方タミル地方パッラバ朝と覇を競ってその北部地方を併合した。以後両王朝間に抗争が繰り返されることとなり,王の晩年には逆に都バーダーミを占拠され,十数年間王朝支配は空白を余儀なくされた。654年ころビクラマーディティヤ1世Vikramāditya Ⅰによって王朝が再興し,7代王ビジャヤーディティヤVijayādityaの治世には最も平和で安定した時期を迎えた。次王ビクラマーディティヤ2世は,パッラバ朝の都カーンチーを3度にわたって占拠し,デカン進出を企てたアラブ勢力を阻んだが,封臣たちがしだいに地方の有力者と化し,755年ころ9代王キールティバルマン2世が封臣のダンティドゥルガDantidurgaによって廃されて,その地位をラーシュトラクータ朝にとって代わられた。

 ラーシュトラクータ朝の約2世紀間の支配を覆したのは,タイラ2世Taila Ⅱが973年ころに興したカルヤーニのチャールキヤ朝(後期西チャールキヤ朝)である。最初,都はラーシュトラクータ朝を引き継いでマーニヤケータMānyakheṭaにあったが,後にカルヤーニに移された。この王朝の主要な政治史は,タミル地方でパッラバ朝に代わって支配を確立したチョーラ朝とのたび重なる抗争である。王朝はチョーラ朝に圧迫されることが多かったが,11世紀後半から12世紀前半の第8代ビクラマーディティヤ6世の治世には勢力が安定し,チョーラ朝の侵攻をよくしのいで,平和で文化が繁栄した。詩人ビルハナによるサンスクリットの《ビクラマーンカデーバチャリタVikramāṅkadevacarita》に王の事績をうかがい知ることができる。後の王は有力化した封臣たちをおさえることができず,王朝は12世紀末には滅亡して,その領土は北をヤーダバ朝,南,東をホイサラ朝カーカティーヤ朝の諸勢力によって分割された。

 一方,プラケーシン2世によってアーンドラ地方に派遣されたビシュヌバルダナは,7世紀前半に独立して都ベーンギーVeṅgīを中心に栄える東チャールキヤ朝を打ち立てた。歴代の王はラーシュトラクータ朝と抗争し,支配が一時中断したこともあったが,チョーラ朝のラージャラージャ1世の援助で再興した。以後婚姻を通じて1070年に両王朝が一つとなり,東チャールキヤ朝のラージェーンドラ2世Rājendra Ⅱは,クロットゥンガ・チョーラ1世Kulottunga Chōḷa Ⅰとして,空位となっていた母方のチョーラ朝の王位に就いた。以降アーンドラ地方は,チョーラ朝の一地方として太守支配が行われ,この地をめぐってカルヤーニのチャールキヤ朝と抗争が繰り広げられた。東チャールキヤ朝は,13世紀後半のチョーラ朝の滅亡とともに,5世紀にわたるアーンドラ地方支配の幕を閉じた。
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チャールキヤ朝3系統の美術は,いずれもヒンドゥー教美術が中心で,ジャイナ教美術も含まれ,大多数が石積寺院である。そのなかでもバーダーミのチャールキヤ朝が美術史上最も重要な役割を果たした。バーダーミのチャールキヤ朝の遺構はデカン高原から西インドのグジャラート州まで分布し,ことに南インドのカルナータカ州バーダーミアイホーレ,パッタダカル,マハークテーシュワルやアーンドラ・プラデーシュ州のアーランプルに有名なものが多い。バーダーミ第1~3窟は6世紀後期に造営され,本格的なヒンドゥー教石窟の最古の例である。石窟であれ石積みであれ天井に神像その他の浮彫をほどこすのもこの王朝に始まると思われる。彫刻は柔らかい肉付きでありながら,しなやかで充実した力強さをそなえている点が特色である。抗争を繰り返したパッラバ朝の影響は,建築形態の点でも彫刻の作風でも後期に顕著である。

 カルヤーニのチャールキヤ朝では,パッラバ朝の影響を受けたバーダーミのチャールキヤ朝の作風を継承しつつ,技巧的になり優雅さは失われた。この傾向はホイサラ朝に伝えられた。主要な遺構は,カルナータカ州のラックンディ,ガダグなどにある。また,東チャールキヤ朝の美術を代表するのはビッカボールの諸寺である。9世紀初期~11世紀中期の六つの石積寺院があり,パッラバ朝の影響が強い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説

チャールキヤ朝
チャールキヤちょう
Chāḷukya

6世紀からインド,デカン地方および南インド地方に勢力を及ぼした王朝。バーターピ (バーダーミ) に都した前期 (あるいは西) チャールキヤ朝 (543~757) ,ベーンギーに都した東チャールキヤ朝 (7~11世紀) ,カルヤーニに都した後期チャールキヤ朝 (975~1189頃) の3つの王統が数えられる。西チャールキヤ朝は6世紀にデカン南部のカルナータカ地方に興り,7世紀前半プラケーシン2世 (在位 608~642) の時代には北はナルバダー川,南はカーベリ川にいたるデカン全土と南インドを支配する大勢力となった。彼は有名なハルシャバルダナとナルバダー川をはさんで対峙し,その侵入を許さなかった。しかし,その後南インドの強国パッラバ朝との長期にわたる抗争に疲弊し,西チャールキヤ朝は滅亡した。他方,プラケーシン2世の弟ビシュヌバルダナはデカン東部,アーンドラ地方を支配していたが,独立してゴーダーバリ川下流のベーンギーに都した。この王朝は東チャールキヤ朝と呼ばれるが,西チャールキヤ朝の滅亡後も存続し,11世紀には南インドの強国チョーラ朝と合体した。また 975年には,西チャールキヤ朝の系統をひく勢力が,西チャールキヤ朝の跡を継いだラーシュトラクータ朝を滅ぼして,新しい王朝を始めた。これが後期チャールキヤ朝で,デカン西部のカルヤーニに都したが,南インドの強国チョーラ朝と争いを繰返し,12世紀末には弱体化し,ヤーダバ朝 (1187~1312) ,カーカティーヤ王国 (1000~1326頃) ,ホイサラ朝などに分裂,1189年頃滅亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説

チャールキヤ朝
ちゃーるきやちょう
Chalukya

南インドの王朝。都と時代を異にする三つの王統に分かれる。まず、前期西チャールキヤ朝は、6世紀中葉、プラケーシン1世の活躍によって台頭し、カルナータカ州北部のバーダーミを都としてデカン地方を支配した。7世紀前半のプラケーシン2世は、北方ではカナウジのハルシャ王の侵入を打ち破り、南方ではカダンバ朝を屈服させ、南東方はパッラバ朝の地にも侵入した。しかし晩年はパッラバ朝軍に、逆に都を落とされた。続くビクラマーディティヤ1世は王国を再建し、パッラバ朝の地深く侵入した。その後は概して平和が続いたが、8世紀中葉、封臣ラーシュトラクータ家が王位を簒奪(さんだつ)し、王朝の支配はとだえた。それを復活したのは10世紀後半のタイラ2世で、その王統は後期西チャールキヤ朝とよばれる。都は北西方のカリヤーニに移された。一方、南東方タミル地方では、パッラバ朝にかわってチョーラ朝が台頭しており、後期西チャールキヤ朝は南インドの覇権を求めてチョーラ朝と争った。11世紀末から12世紀初頭のビクラマーディティヤ6世の治世には平和が続き、宮廷詩人ビルハナが活躍したが、その後文弱な王が相次ぐ間に封臣が勢力を伸ばし、1190年ごろヤーダバ家とホイサラ家の挟撃を受けて滅亡した。前期西チャールキヤ朝のプラケーシン2世は、東部アーンドラの地を征したのち、その支配を弟ビシュヌバルダナにゆだね、そこにベーンギーを都とする東チャールキヤ朝の支配が開始された。この王統は、長い間続いた婚姻政策の結果、1070年にチョーラ朝と合体するまで継続した。

 バーダーミおよびその付近に残る6~7世紀のヒンドゥー教諸寺院は、ドラビダ様式の最初期の発展を示すものとして美術史上に名高く、後期西チャールキヤ朝期に建立された諸寺院は、ドラビダ様式中、とくにデカン様式として発達した形をよく示している。

[辛島 昇]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チャールキヤ朝」の解説

チャールキヤ朝(チャールキヤちょう)
Cāḷukya

インドの王朝。これには次の4王朝がある。(1)マイソール北部のバーダーミを都として,ハルシャ・ヴァルダナの進出を押え,南のパッラヴァ朝と攻防を繰り返した王朝。550年頃からデカンを支配した。(2)その王朝のプラケーシン2世の弟の子孫はヴェーンギーを都として,630年から970年までアーンドラ地方を支配したが,チョーラ朝と合体した。(3)バーダーミの王朝を破ってデカンを2世紀間支配したラーシュトラクータ朝に代わり,カルヤーナを都とした王朝。973~1189年間にマイソールとアーンドラ内陸部を含む広大な領域を支配した。(4)974~1238年にグジャラートを支配した王朝もあった。これら4王朝は6世紀から13世紀のインドの政治勢力の歴史に大きな役割を果たした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「チャールキヤ朝」の解説

チャールキヤ朝
チャールキヤちょう
Chāḷukya

古代南インドの王朝
6〜13世紀にかけて,この名の王朝が4つあるが,630〜970年アーンドラ地方を支配した第2王朝と,973〜1189年マイソールとアーンドラの大部分を支配した第3王朝は,インド史に大きな役割を果たした。

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世界大百科事典(旧版)内のチャールキヤ朝の言及

【ヒンドゥー教美術】より

…次いで南インドで6世紀末期から300年間互いに抗争を繰り返したチャールキヤ,パッラバ,パーンディヤの3王朝の治下にヒンドゥー教文化はおおいに高揚した。カルナータカ州北部を中心とするチャールキヤ朝では,バーダーミの石窟(6世紀末期),アイホーレ(6世紀後期~8世紀)とパッタダカル(8世紀前半)との石積寺院が代表的遺構。パッラバ朝では首都カーンチープラムのカイラーサナータ寺をはじめとする石積寺院(7~9世紀),海港マハーバリプラムの岩石寺院,石窟,石積寺院(7世紀前期~8世紀初期)が重要である。…

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