タソス島(読み)タソストウ(英語表記)Thásos

デジタル大辞泉 「タソス島」の意味・読み・例文・類語

タソス‐とう〔‐タウ〕【タソス島】

ThasosΘάσοςギリシャ、エーゲ海北部の島。中心地はタソス(旧称リメナス)。最初フェニキア人が定住し、紀元前7世紀にパロス島植民都市となった。古くから金と大理石産地として知られ、紀元前6世紀から5世紀にかけて栄えた。古代ローマ東ローマ帝国に続いてオスマン帝国支配下に置かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「タソス島」の意味・わかりやすい解説

タソス島
たそすとう
Thásos

ギリシアのマケドニア地方東部、エーゲ海北端、カバラ湾入口にある島。面積379平方キロメートル、人口約1万3000。山がちで森林に覆われる。最高点はプサリオ山の標高1203メートル。オリーブ油、ワインを産する。中心地は北岸のタソス(旧称リミンLimin)。タソス港の近くにアゴラアクロポリスなどギリシア時代の遺跡が残る。

[真下とも子]

歴史

最初の住民として知られるのは、金鉱山の存在に目をつけたフェニキア人であったといわれる。その後、紀元前7世紀にパロス(キクラデス諸島パロス島の中心市)の植民市となり、金の採掘、良質のワインと大理石の産出によって栄え、ギリシア本土、エジプト、フェニキアとの交易によって前6~前5世紀までには繁栄の極に達していた。ペルシア戦争時にはペルシアに屈したが、その後はアテナイアテネ)のデロス同盟の一員となる。しかし金鉱山の領有をめぐってアテナイと争って敗れ(前465)、貢租を納める従属的地位に落とされた。ペロポネソス戦争後、一時スパルタの支配下にあったが、再度アテナイに従属することになった。マケドニア戦争時にはフィリッポス5世(在位前221~前179)の側についたが、キノスケファライの戦い(前197)後、ローマから自由市を宣せられ、以前の繁栄を取り戻した。15世紀にジェノバ人、続いてオスマン帝国に占拠されたが、1913年、トラキアとともにギリシアに復帰した。

[古川堅治]

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改訂新版 世界大百科事典 「タソス島」の意味・わかりやすい解説

タソス[島]
Thásos

エーゲ海北部にあるギリシア領の島。カバラ県に属し,本土のネストス河口約7kmの沖合に位置する。面積379km2,人口1万3000(1971)。中心は北岸のタソス。山がちの島で,農業,牧畜のほか大理石,亜鉛の採掘も行われている。古代からフェニキア人,トラキア人,さらには前7世紀初め以降のパロス島からのギリシア人植民によって開け,島内および対岸のトラキアの金山の領有により,タソスは有力ポリスに数えられた。ペルシア戦争後デロス同盟に加入したが,金山をめぐるアテナイとの紛争により,一時アテナイに服した(前465-前463)。のちマケドニア,ローマ,ラテン帝国などの支配下に入り,15世紀半ば以降はオスマン帝国領。ギリシアに復帰したのはロンドン条約締結(1913)後であった。古来ブドウ酒の名産地としても知られる。大画家ポリュグノトスの出身地。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タソス島」の意味・わかりやすい解説

タソス島
タソスとう

サソス島」のページをご覧ください。

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