ソテロ(読み)そてろ(英語表記)Luis Sotelo

精選版 日本国語大辞典 「ソテロ」の意味・読み・例文・類語

ソテロ

(Luis Sotelo ルイス━) スペインのフランシスコ会修道士。慶長七、八年(一六〇二‐〇三)頃来日徳川家康・伊達政宗の知遇を得て、布教を行なう。慶長一八年、政宗の遣欧使節支倉常長(はせくらつねなが)を案内してスペイン王フェリペ三世、ローマ教皇パウロ五世に謁見させた。再度の来日は鎖国令にふれ、火刑に処せられる。(一五七四‐一六二四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「ソテロ」の意味・読み・例文・類語

ソテロ(Luis Sotelo)

[1574~1624]スペインのフランシスコ会宣教師。慶長8年(1603)来日。徳川家康伊達政宗の知遇を得て布教。遣欧使節支倉常長はせくらつねながの案内役を勤め、キリシタン禁制後再度来日したが、火刑により殉死

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソテロ」の意味・わかりやすい解説

ソテロ
そてろ
Luis Sotelo
(1574―1624)

スペイン人宣教師。フランシスコ会士。日本におけるフランシスコ会宣教活動の中心人物として活躍した。1603年(慶長8)に来日、まず京都で日本語の知識に磨きをかけたのち、京都、豊後(ぶんご)府内(大分市)、大坂や江戸に布教して教会を建て、江戸浅草ハンセン病の病院を開設した。江戸、とくに本州の北部で、伊達政宗(だてまさむね)の好意を得て、宣教活動に従事した。1613年、徳川秀忠(とくがわひでただ)による江戸のキリシタン迫害で死刑を宣告されるが、政宗の嘆願で刑を免れる。同年、政宗の遣欧使節として支倉常長(はせくらつねなが)に同行、メキシコ経由でマドリードローマに赴いた。ローマで教皇から東日本の司教に任命されたものの、反対する者があり、その任につくことはなかった。日本への帰路マニラ総督により4年間も足止めされるが、1622年(元和8)、キリスト教禁制下の日本に向けて出航薩摩(さつま)地方に潜入したがただちに逮捕され、2年後大村の近くで火刑により殉教した。

[大谷啓治 2018年2月16日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ソテロ」の意味・わかりやすい解説

ソテロ
Luis Sotelo
生没年:1574-1624

スペイン人のフランシスコ会士。1594年同会に入会,東洋伝道を志し99年スペインを出発,翌年マニラに到着。同地の日本町で日本人キリシタンを指導し,日本語を学んだ。1603年(慶長8)フィリピン総督の書簡,贈物を携えて来日し,徳川家康,秀忠に謁見し,その後主として和歌山,江戸で布教に従事した。09年漂着したビベロと,メキシコ貿易開設を望む家康との間に立って,通訳兼斡旋役として尽力し,仮協定を成立させた。江戸で関東の地区長のころ伊達政宗の知遇を得,東北地方に布教を行い,教勢の拡大を図った。政宗に慶長遣欧使節を立案し,13年10月みずからも支倉常長らとともに渡欧した。ソテロの目的は(1)メキシコ貿易開設,(2)みずからが東日本地区の司教になること,にあったが,いずれも各方面からの反対によって失敗に終わった。22年(元和8)日本潜入後捕らえられ,24年(寛永1)に処刑。1867年に列福。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「ソテロ」の解説

ソテロ

没年:寛永1.7.12(1624.8.25)
生年:1574.9.6
スペイン人フランシスコ会士。セビリア市参事会員の次男。1600年メキシコを経てフィリピンに渡る。慶長8(1603)年,来日して大坂,紀伊,江戸で布教。同16年伊達政宗の知遇を得て奥州布教の足がかりをつくる。同18年9月政宗の遣欧使節支倉常長と共に牡鹿半島月の浦を出帆,マドリードおよびローマに赴いた。スペイン国王,ローマ教皇に拝謁したが,使節出立後,キリシタンをめぐる日本の政治情勢が激変したため,日本布教の援助を求める所期の目的を達せず,メキシコ経由で,1618年フィリピンに到着。同地に抑留され,支倉常長のみ元和6(1620)年帰国した。ソテロは2年後,禁制を犯して薩摩(鹿児島県)に潜入したが,直ちに捕らえられ,寛永1(1624)年大村において殉教した。当時の複雑な国際情勢の中にあって,布教のみならず政治面でも活躍したこともあり,敵対者も多く,彼ほど毀誉褒貶の極端な来日宣教師は珍しい。<参考文献>L.ペレス著,野間一正訳『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』

(野間一正)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ソテロ」の意味・わかりやすい解説

ソテロ
Sotelo, Luis

[生]1574.9.7. セビリア
[没]寛永1(1624).7.12. 大村郊外
スペイン出身の司祭,フランシスコ会士。東洋伝道のためマニラを経て,慶長 11 (1606) 年来日。将軍家の許可を得て,江戸,府内 (現大分市) ,大坂などで布教,聖堂,コレジオを建設,浅草に癩病院を設立。伊達政宗と知合い,同 15年以降奥州で布教。政宗に貿易をすすめ,同 18年その遣欧使節支倉常長に随行し,スペイン国王,教皇に謁見させたが (→慶長遣欧使節 ) ,貿易の計画は失敗。しばらくローマに滞在,再び日本布教を企て,元和8 (22) 年キリスト教禁令下の日本に潜入したが捕えられ,寛永1 (24) 年大村郊外で火刑。慶応3 (1867) 年殉教福者として列福。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ソテロ」の解説

ソテロ Sotelo, Luis

1574-1624 スペインの宣教師。
1574年9月6日生まれ。フランシスコ会司祭。慶長8年(1603)来日。各地で布教し,16年伊達政宗に仙台にまねかれる。18年政宗の遣欧使節支倉常長(はせくら-つねなが)らとスペイン,ローマにいく。元和(げんな)8年禁教令をおかして薩摩(さつま)(鹿児島県)にはいり,捕らえられ寛永元年7月12日肥前大村(長崎県)で殉教した。49歳。セビリア出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のソテロの言及

【キリスト教】より

…その5年前,大村純忠らによって派遣された天正遣欧使節はローマに赴いて教皇グレゴリウス13世に謁している。禁教にもかかわらず,フランシスコ会士は1593年に初来日し,宣教師の一人ソテロは仙台へ行き,伊達政宗に迎えられた。江戸幕府は禁教令をきびしくし,オランダとのみ通商を認めたが,長崎の出島を離れることを許さなかった。…

※「ソテロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android