セルビア蜂起(読み)セルビアほうき

改訂新版 世界大百科事典 「セルビア蜂起」の意味・わかりやすい解説

セルビア蜂起 (セルビアほうき)

オスマン帝国に対する2度にわたるセルビア人蜂起。第1次1804-13年,第2次1815-17年。セルビア人がバルカン半島で初めて蜂起を企て成功したのは,次のような理由,すなわち(1)民衆教会としてのセルビア正教会の存続,(2)セルビア人の民族意識を保持した民族叙事詩の存在,(3)地方自治組織の存在,(4)オスマン帝国辺境地としてのセルビアの地理的位置,が考えられる。第1次セルビア蜂起は豚商人のカラジョルジェを指導者として1804年に始まった。この蜂起は,オスマン政府とは別に,セルビア人に圧制を加えたイエニチェリ(常備軍団)の行為に対する反乱として起こったもので,蜂起は急速に拡大した。06年に露土戦争が始まると,カラジョルジェらはロシアの支持を期待し,オスマン政府による自治承認の申し出を拒否してセルビアの独立を要求。蜂起は独立を目ざす闘争へと変化した。しかし07年に,ロシアはナポレオンティルジットの和約を結び,オスマン帝国と休戦協定を締結した。孤立したセルビアはなおも闘いを続けるが,13年に圧倒的なオスマン軍の攻撃にあい,蜂起は鎮圧された。オスマン帝国の激しい報復行為に対し,15年にミロシュオブレノビッチを指導者とする第2次蜂起が生じた。今回はナポレオン戦争も終結しており,ロシアはバルカンに全勢力を注ぐことができたので,オスマン帝国も強硬手段に訴えるわけにいかなかった。オブレノビッチはこうした国際情勢を巧みに利用して現実主義的な政策をとり,同年末に公の称号を与えられ,セルビアは一定の自治を獲得。その後も,オスマン政府との交渉が続けられ,30年に完全な自治を得た。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「セルビア蜂起」の解説

セルビア蜂起(セルビアほうき)
Srpski ustanci

1804年と15年の2度にわたって生じたオスマン帝国からの解放をめざすセルビア人の蜂起。(1)第1次オスマン政府の統制を離れてセルビア人に圧制を加えたイェニチェリの行為に対する反乱として生じた。当初,豚商人カラジョルジェを指導者とする蜂起は政府に旧秩序の回復を求める請願運動の色彩が強かったが,05~06年に蜂起の鎮圧に乗り出したオスマン軍と初めて戦火を交えるに及び,その性格は反オスマン帝国に変化した。ロシア‐トルコ戦争を始めたロシアの支援を期待し,独立をめざす戦いとなった。しかし,ロシアはすぐに休戦協定を結んだため,セルビアは単独でなお独立の戦いを継続。13年,圧倒的なオスマン軍の攻撃にあい,蜂起は鎮圧された。(2)第2次ナポレオン戦争が終結した15年,豚商人のミロシュ・オブレノヴィチを指導者とする蜂起が生じた。ミロシュは独立ではなく自治を求めて,オスマン政府と粘り強い交渉を続け,30年にセルビア公国として自治を承認された。

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世界大百科事典(旧版)内のセルビア蜂起の言及

【セルビア】より

…こうした状況において,1804年にセルビアでバルカン初の農民反乱が生じた。この第1次セルビア蜂起(1804‐13)は家畜商人カラジョルジェを指導者としてセルビア一帯に拡大した。蜂起は初めから反オスマン帝国を掲げた民族解放の反乱であったわけではなく,〈悪いトルコ人〉の圧政により破壊されていた旧来の法や秩序の回復をスルタンに請願するかたちで行われたのである。…

※「セルビア蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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