スラブ学(読み)スラブがく(英語表記)Slavic studies

改訂新版 世界大百科事典 「スラブ学」の意味・わかりやすい解説

スラブ学 (スラブがく)
Slavic studies

スラブ民族言語,文学,民俗,歴史,物質文化および精神文化を対象とする総合的な学問。人文科学系の研究分野に属し,第2次世界大戦後にアメリカを中心に盛んになった社会科学系のソ連・東欧研究とは区別される。スラブ学のおこりは18世紀末で,その背景にあったのはスラブ民族意識の高揚である。それは,他民族の支配下にあった西のポーランドチェコスロバキア,南のバルカン半島のスラブ諸民族のあいだで,民族解放運動ないし独立運動の支えとなった。もちろん,自民族の歴史と文化遺産の探求には西ヨーロッパのロマン主義の影響をも見逃すわけにはいかない。スラブ学は最初はスラブ文献学として発展した。すなわち,9世紀後半にモラビアに布教したキュリロスメトディオス兄弟が案出した最古のスラブ文字(グラゴール文字と呼ばれる)とその言語(古代教会スラブ語)の研究であり,この分野は現在ではキリロメトディアナCyrillomethodianaの名称で呼ばれている。初期の代表的なスラブ文献学者は,チェコドブロフスキースロベニアコピタルロシアのボストーコフAleksandr Khristoforovich Vostokov(1781-1864)である。

 スラブ学の研究が本格化するのは19世紀前半からである。ロシアでは1835年にスラブ文献学が大学の研究部門および講座として正式に認められた。ロシアの学者はスラブ諸国を回って古写本の収集と方言や民俗の研究にたずさわった。《古代ロシア語辞典資料》のスレズネフスキーIzmail Ivanovich Sreznevskii(1812-80)もその一人である。チェコではユングマンJosef Jungmann(1773-1847),シャファーリクなどが活躍し,セルビアではカラジッチがセルビア民族叙事詩を採録し,さらにセルビア・クロアチア文章語の創設に尽力した。ポーランドでも19世紀前半にワルシャワクラクフを中心にスラブ文献学がおこった。ロシアの圧制を逃れてパリに亡命していたポーランドの国民詩人ミツキエビチは,スラブ文学の講義を通じて祖国の独立運動に大きな影響を与えた。

 19世紀中葉よりスラブ学はそれまでのロマン主義的傾向および総合的性格から脱皮して,スラブ諸民族の文化を対象とする言語学,文学研究,民俗学考古学などに細分化された。さらにはスラブ圏のわくを超え,西ヨーロッパにおいても学問分野として認められた。1849年にウィーン大学にスラブ文献学の講座が設けられ,スロベニア人で《スラブ語比較文法》で知られるミクロシッチFranz Miklošič(1813-91)がその講座を担当し,同じころ開設されたプラハカレル大学の講座を担当したドイツ人でインド・ヨーロッパ語学者A.シュライヒャーとともに,多数のすぐれたスラブ学者を養成した。87年よりウィーン大学の講座を担当したクロアチア人のヤギチVatroslav Jagić(1838-1923)は,ドイツやロシアでも教壇に立ち,各国の研究者の連係をはかった。ロシアでは言語学者ないし文献学者のブスラーエフFyodor Ivanovich Buslaev(1818-97),ポテブニャAleksandr Afanas'evich Potebnya(1835-91),年代記の研究で知られるシャフマトフAleksei Aleksandrovich Shakhmatov(1864-1920),文学研究のベセロフスキーAleksandr Nikolaevich Veselovskii(1838-1906),総合的な《スラブ文学史》のプイピンAleksandr Nikolaevich Pypin(1833-1904)などが輩出し,またポーランド出身の言語学者ボードゥアン・ド・クルトネ,クルシェフスキMikołaj Kruszewski(1851-87)もおもにロシアで活動した。ポーランドでは《ポーランド語語源辞典》のブリュクネルAleksander Brückner(1856-1939),民俗学のコルベルクOskar Kolberg(1814-90),チェコではスラブ古代史のニーデルレLubor Niederle(1865-1944)などが知られる。

 西ヨーロッパのスラブ学は,前述のウィーンを除けば,ドイツとフランスが中心となっており,ドイツでは古代教会スラブ語を研究したレスキーンAugust Leskien(1840-1916),ディールスPaul Diels(1882-1963),《ロシア語語源辞典》のファスマーMax Vasmer(1886-1962),バルト・スラブ関係研究のトラウトマンReinhold Trautmann(1883-1951),フランスではインド・ヨーロッパ語学者で《共通スラブ語》のメイエ,ロシア文学研究のマゾンAndré Mazon(1881-1967)などの名があげられる。なお,ウィーンでは,ロシアの言語学者で音韻論の創始者N.S.トルベツコイが1922年よりスラブ文献学の講座を担当した。第2次世界大戦をきっかけにヨーロッパの有力な学者がアメリカに亡命し,スラブ学は新大陸にも拡大した。その代表は,ユダヤ系ロシア人で叙事詩の研究で知られるヤコブソンである。スラブ学の世界的な学会ないし連絡機関としては,国際スラビスト会議があり,1929年より5年ごとにスラブ諸国が持回りで大会を開いている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スラブ学」の意味・わかりやすい解説

スラブ学
スラブがく
Slavyanovedenie; Slavic studies

スラブ諸民族の言語,歴史,文化などを研究する学問の総称。狭義にはスラブ民族の起源,相互関係,文献学の意味にも用いられる。 18世紀にチェコスロバキア,ポーランド,ロシアに文献学として始り,19世紀中頃になるとスラブ主義の影響もあって,他の民族に比べスラブ民族のすぐれた特徴の研究に重点がおかれた。 19世紀末には,ナショナリズムの運動と相まって,個々のスラブ民族の特徴が強調されるようになった。第2次世界大戦後はソ連を中心に東欧諸国のスラブ民族の歴史的友好関係を主張する研究の方向が出てきた。一方アメリカや日本などでは地域研究の一環として政治や経済も含めた研究に重点がおかれている。

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