スウィフト(Jonathan Swift)(読み)すうぃふと(英語表記)Jonathan Swift

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

スウィフト(Jonathan Swift)
すうぃふと
Jonathan Swift
(1667―1745)

イギリスの小説家、聖職者。11月30日アイルランドのダブリンに生まれる。生時、父はすでになく、母からも捨てられて、おもに伯父の手で養育され、ダブリンのトリニティ・カレッジを卒業。ただし放縦怠惰な学生で、卒業して学位を受けたのも特別の恩典によった。ロンドンに出て、母方遠縁にあたる当時政界の大立物、サー・ウィリアム・テンプルのもとに秘書の名で寄食する。ここで古典や歴史を大いに学ぶとともに、大小の政治家とも接触、しだいに政界への野心を抱いた。一時アイルランドに戻って牧師となったが、またテンプル家の人となり、1690年代から詩文にも手を染め始める。ただし詩のほうは、その作を当時の詩壇の巨匠で彼の遠縁にもあたったジョン・ドライデンがみて、「君は詩人にはなれないね」と苦笑した。

 1704年に一冊で出版された風刺物語『書物合戦』と『桶(おけ)物語』は彼の初期の代表作である。前者は古代と近代とどちらの文化が勝るかという当時やかましかった論争一役買って古典賛美派の肩をもったものである。また後者はカトリックプロテスタント、イングランド教会三者の争いを、親から相続した上着を争う3人の息子に託して風刺した作品で、当時の情勢に暗い今日の読者にはどちらも読みづらいが、この作者の風刺の才はすでに歴然としている。以後、風刺あるいは論争の才が認められて、当時ホイッグ、トーリー両党の政治論争の激しかったなかで、政治ジャーナリズムに登場する機会が与えられる。しかし功名出世をあせって執筆上の節操を欠き、たまたま政情の激変もあり、頼むテンプルにはかなり前に死なれたこともあって、彼は政界への野心を断念、13年以後はダブリンの聖パトリック教会の首席司祭に収まった。この位置にも彼は不平満々であり、悶々(もんもん)の情は終生つきまとって、誕生以来の数奇の経歴とともに、彼をいよいよ人間嫌いに仕立て、ますます痛烈な風刺の道に進ませたと考えられる。

 有名な代表作『ガリバー旅行記』(1726)は、主人公ガリバーが次々といろいろな架空の国に漂着して(ただし第3巻の巻末には架空でない徳川時代の日本に漂着するところが描かれている)、不思議な経験をするという筋立てであり、奇抜極まる着想の妙で今日なお広く世界各国で愛読されている。この作も本質は人類の愚劣さを徹底的に罵倒(ばとう)・風刺したものであり、英文学史上の名作・奇作といえる。この一作以外は世間的知名度の点で劣るとはいえ、たとえば匿名で出版された『ドレイピア書簡』(1724)は、粗悪な通貨によるイギリスのアイルランド搾取政策を辛辣(しんらつ)に攻撃して、筆者発見に懸賞金をかけさせるほどロンドンの政府をあわてさせた。また1729年の『アイルランド貧民の児童を有効に用いるための謙虚な提案』は、嬰児(えいじ)を食肉として売り出せば、柔らかくて珍味ではあり、人口問題は解決され、貧しい親には金もうけにもなって、一石三鳥の功徳があると、にこりともしない一見大まじめな態度で説いたもので、ここまでくるともう普通にいわれる意味での風刺作品とはいいがたい感さえある。風刺の作品は一般の読者の哄笑(こうしょう)ないし微苦笑を誘うはずのものだからである。もう一つ、死後出版の『僕婢(ぼくひ)訓』(1745)も、男女の召使いたちに、いかにして主人たちの目をかすめて財物をくすね私腹を肥やすべきかを、微に入り細をうがって丹念に教えている奇書である。どうしてこのような常軌を逸した感のある作品を次々と物したのか、生涯にわたる前記の不満からだけでは説明困難のように思われる。これらのほか、恋愛関係にあった女性への書簡の形で書きつづった『ステラへの日記』(1766以後刊)などがこの作者のめぼしい業績である。

 20代からめまいと難聴に悩んだが、50代から悪化、晩年15年ほどは狂気の予感にもおびえ、最後はまったく廃人の状態で、1745年10月19日ダブリンで没した。

[朱牟田夏雄]

『深町弘三訳『桶物語・書物戦争他』『奴婢訓』(岩波文庫)』『山本和平訳『書物合戦・ドレイピア書簡』(1968・現代思潮社)』『中野好夫著『スウィフト考』(岩波新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android