ジョスカン・デ・プレ(読み)ジョスカンデプレ

百科事典マイペディア 「ジョスカン・デ・プレ」の意味・わかりやすい解説

ジョスカン・デ・プレ

フランドル楽派を代表する作曲家。生年は諸説あり,生地も不詳。名のつづりも数種ある。ルネサンス最大の巨匠として在世中から尊敬を集め,ルターにも賞賛された。青年時代にイタリアへ赴き,1459年−1472年ミラノの大聖堂聖歌隊歌手を務める。ミラノ公の宮廷に移り,1479年−1486年ミラノ公の弟アスカニオ・スフォルツァに仕えた。1486年から10余年ローマの教皇礼拝堂聖歌隊歌手として活躍。この間,ミラノ,フィレンツェ,モデナなどにも足を向ける。1501年にはフランスに出てルイ12世の宮廷に仕えたのち,1503年フェラーラ公エルコレ1世の宮廷礼拝堂楽長を務めた。翌1504年コンデ・シュル・レスコー(北東フランス)のノートル・ダム教会主任司祭に就任し,以後世を去るまでこの職にあった。作品には,ミサ曲モテットなどのラテン語による宗教作品,シャンソンなどの世俗声楽作品,器楽曲などがあり,ミサ曲はその生前ベネチアで当時例のない個人全集3巻(1502年−1514年)として出版されている。いわゆる〈通模倣様式特定声部定旋律をおかず,各声部が対等に独立して同一旋律の模倣を行う模倣対位法書法の完成者とされ,作品は充実した響きと揺るぎない構築美を示す。高度な技巧と感情表出とが不可分に結び合うその音楽完成度の高さは,しばしば同時代人レオナルド・ダ・ビンチミケランジェロ芸術に比せられてきた。→オケヘム
→関連項目イザークキリスト教音楽スタバト・マーテルペルト

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョスカン・デ・プレ」の意味・わかりやすい解説

ジョスカン・デ・プレ
Josquin des Prez

[生]1450頃. コンデシュルレスコー?
[没]1521.8.27. コンデシュルレスコー
フランドル楽派の作曲家。Desprez,des Prés,Desprésなどとも綴られる。音楽上の盛期ルネサンスを代表する大家で,1474~79年までミラノのスフォルツァ公の聖歌隊の歌手を務めたのち,1486~94年頃までローマ教皇礼拝堂の一員であった。1503年にはフェララのエステ公エルコレ1世の楽長に任ぜられ,その後ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世とその娘マルガレーテ姫の保護を受け,経済的に保障された晩年を送った。ミサ曲,モテト,シャンソンなど多くの作品を残したが,ミサ曲『聖なる処女より』『パンジェ・リングァ』『平安を与えたまえ』,モテト『ミゼレーレ』などが特に有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョスカン・デ・プレ」の意味・わかりやすい解説

ジョスカン・デ・プレ
じょすかんでぷれ
Josquin des Préz
(1440ころ―1521)

フランドルまたはフランスの作曲家。15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍したフランドル楽派の作曲家中最大の人物であるばかりでなく、15、16世紀のルネサンス時代における最大の巨匠でもある。ミラノ、ローマ、フェッラーラなどイタリアで活躍した期間が長かったが、晩年はフランドルのコンデ・シュール・レスコーの主任司祭として死ぬまで同地で過ごした。

 ミサ曲、モテトゥス、シャンソンなどを多数書いたが、ミサ曲では、デュファイ以来の循環ミサ曲の形を通模倣書法を取り入れることによって完成させた。モテトゥスでも通模倣書法による作品が多いが、この書法は16世紀末までの宗教曲の基本的な作曲原理として受け継がれていった。シャンソンの分野では、15世紀のブルゴーニュ・シャンソンの形を脱して自由形式によるものを多く書き、16世紀のシャンソンへの橋渡しを行った。

[今谷和徳]

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