ジュネーブ会議(読み)ジュネーブかいぎ

精選版 日本国語大辞典 「ジュネーブ会議」の意味・読み・例文・類語

ジュネーブ‐かいぎ ‥クヮイギ【ジュネーブ会議】

[一] 一八六三~六四年、ジュネーブで開かれた国際赤十字会議。この結果、戦地の傷病者に対する平等な救済救護施設中立などを定めたジュネーブ条約が成立。
[二] 一九五四年四月二六日~七月二一日、ジュネーブで開かれた朝鮮統一インドシナ休戦に関する国際会議。参加国はアメリカ、イギリスフランスソ連中華人民共和国のほか関係諸国。朝鮮問題は米ソの意見が合わず六月一五日に討議打切り、インドシナ問題は七月二一日に休戦協定ジュネーブ協定)を調印して境界線(北緯一七度)を定め、監視委員会を設置した。
[三] 一九五五年七月にジュネーブで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連、フランス四か国の巨頭会談。ヨーロッパの安全保障、軍縮、東西関係などを討議した。

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デジタル大辞泉 「ジュネーブ会議」の意味・読み・例文・類語

ジュネーブ‐かいぎ〔‐クワイギ〕【ジュネーブ会議】

1863~1864年、赤十字社創立者アンリ=デュナン提唱で、戦地の傷病者救護に関して開かれた国際会議。
第一次大戦後、ジュネーブで開かれた軍縮会議。→ジュネーブ軍縮会議
1954年、インドシナの休戦、朝鮮半島の統一について、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連・中国・南北ベトナムラオスカンボジアが参加して開かれた国際会議。その結果、インドシナ休戦協定が成立。→インドシナ戦争

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改訂新版 世界大百科事典 「ジュネーブ会議」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ会議 (ジュネーブかいぎ)

1954年,第1次インドシナ戦争の終結を決めた国際会議。朝鮮戦争の解決もはかったが失敗した。1946年以来の新生ベトナム民主共和国とフランスとの間の第1次インドシナ戦争は50年以降,米中ソの介入により急速に冷戦構造の中に巻き込まれていった。しかし米ソの軍事的均衡平和運動の高揚,非同盟外交の発展,戦局の行詰りから,54年1~2月のベルリン4国(米英仏ソ)外相会議は,4月にジュネーブで中国を加えた国際会議を開くことを決めた。さらにインドシナ4国(ベトナム民主共和国,バオダイ・ベトナム,ラオス,カンボジア)の参加が認められた。5月8日,ディエンビエンフーの陥落直後に開会された会議は,ベトナムの即時独立と統一選挙の実施を主張する民主共和国(代表ファム・バン・ドン)と,軍事境界線を設定してベトナムを二分しようとするフランスとの間に対立が続いたが,非公開会議におけるイギリス(代表イーデン),中国(代表周恩来),ソ連(代表モロトフ)の仲介と,フランス政変によるマンデス・フランスの登場により,7月21日,ベトナム,ラオス,カンボジアにおける敵対行動停止に関する3協定が調印された。この結果,(1)北緯17度線を軍事境界線とし,ベトナム人民軍(民主共和国軍)はその以北に,フランス,バオダイ・ベトナム軍は以南に集結し,8月末までにいっさいの軍事行動を停止する,(2)協定履行のためのカナダ,インド,ポーランドからなる国際監視委員会の設置などが決まった。ベトナムの統一については7月21日の最終宣言によって,56年7月に全国統一選挙が実施されることになった。しかしアメリカは最終宣言への参加を拒否し,バオダイは休戦条約に反対し,このためジュネーブ会議でもたらされた平和は,同時にベトナムの分裂を長期に固定するものとなった。それにもかかわらず,ジュネーブ会議は翌年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)とともに,第2次大戦後のアジア民族運動の正統性と勝利の国際的な承認としてきわめて高い評価を与えられる。
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百科事典マイペディア 「ジュネーブ会議」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ会議【ジュネーブかいぎ】

ジュネーブで行われた国際会議。(1)1927年ワシントン会議の成果を継承して開かれた海軍軍縮会議。日・米・英3国が参加して補助艦艇の制限を討議したが具体的成果はなく,1930年のロンドン会議に持ち越された。(2)1932年―1933年国際連盟主催で61ヵ国が参加して行われた最初の世界軍縮会議。連盟非加盟国の米・ソも参加したが,安全保障規定を要求するフランスと再軍備許容を要求するドイツの対立で難航。その間,日・独両国は連盟を脱退し,会議は成果なく終わった。(3)1954年朝鮮統一問題とインドシナ戦争終結問題を討議するため開催。前者については19ヵ国が参加したが意見対立のまま打切りとなった。後者についてはジュネーブ協定が成立して一応の成果をあげた。
→関連項目ディエンビエンフーの戦

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世界大百科事典(旧版)内のジュネーブ会議の言及

【インドシナ戦争】より

…フランス側の軍事努力は限界に達し,政治解決が急速に進した。7月21日,ジュネーブ会議は,(1)北緯17度線を境界として,南をバオダイ・ベトナム軍,北を民主共和国人民軍の集結地とする,(2)フランス軍は速やかに撤退する,(3)国際監視委員会の下に,56年7月統一選挙を行う,などを骨子とする平和条約を締結した。 カンボジアでは46年1月,フランス連合内での自治が許されたが,以後シアヌークはクメール・イッサラ,クメール抵抗派(ベトミン系)を攻撃するかたわら,フランスから軍事権,外交権を次々に奪還し,54年3月までに完全独立を達成した。…

【ベトナム】より

…フランス軍は当初平野部の制圧に成功したが,チュオン・チンの人民戦線戦術によって,戦線は膠着化し,バオダイ・ベトナム国の擁立やアメリカの大量の軍事援助にもかかわらず,54年ディエンビエンフーに大敗して,撤退に追い込まれた。同年のジュネーブ会議により,ベトナムは北緯17度線を境に北を民主共和国,南をバオダイ・ベトナム国の統治にゆだね,3年後に統一選挙が施行されることになった。しかし翌55年バオダイを廃してベトナム共和国初代大統領に就任したゴ・ディン・ジェムは,アメリカの軍事・経済援助を背景に,南北分割の恒久化を図って民主共和国と対立し,一方,国内では土地改革に失敗して,旧ターディエン(借佃。…

【ラオス】より

…1953年10月に王国政府はフランスとの間で〈友好連合条約〉を結び,これによってラオスは完全独立を達成した。 54年のジュネーブ会議でまとめられたジュネーブ協定のなかのラオス条項は,休戦,外国軍の撤退,休戦監視委員会の設置,国内統一のための総選挙,パテト・ラオの北部2省への集結などを定めた。しかしアメリカは,東南アジア条約機構(SEATO)を発足させ,王国政府へ軍事援助を始めた。…

※「ジュネーブ会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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