ジャンヌ・ダルク(読み)じゃんぬだるく(英語表記)Jeanne d'Arc

翻訳|Jeanne d'Arc

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャンヌ・ダルク」の意味・わかりやすい解説

ジャンヌ・ダルク
じゃんぬだるく
Jeanne d'Arc
(1411/1412―1431)

15世紀前半、イギリスのランカスター王家が仕掛けてきた戦争(後期百年戦争)の最中、神の命令を受けたと称して現れ、フランスのバロア王家を支援したロレーヌ出身の女。2年後、異端として殺された。

 今日われわれのみるジャンヌ・ダルクは、国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人のみたジャンヌ像であり、国家主義的、王党派的見方に貫かれている。ジャンヌ関係の根本史料は、ルーアン宗教裁判記録を第一とするが、19世紀中葉の活字本には多々不備があり、1960年代に入り、新たに校訂本の刊行が開始された。ジャンヌ研究は、いまようやくにして始まったところである。

[堀越孝一]

オルレアンの戦い

ロレーヌの生村ドンレミ(現在ボージュ県ドンレミ・ラ・ピュセル村)を出て、1429年2月初め、王太子シャルルが本陣を置くシノン城市に姿を現すまでのジャンヌの動静には、不明な点が多い。近在の城市ボークールールの守備隊長ロベールは、パリの王政府からシャンパーニュのショーモン代官職を預かる叔父の代理を務め、ドンレミ村の裁判領主である。ジャンヌの父ジャコは、村の代訴人としてロベールの法廷に出たこともある村の有力者である。娘のジャンヌは、ロベールを頼った。ロベールは、形式上はあくまで王太子シャルルと敵対しているパリの王政府(イギリスとフランスの王を称する幼王ヘンリー6世の摂政ベドフォードの政府)の役人でありながら、シャルルに味方している。ロベールがジャンヌにつけてやった数人の護衛のうちには、王太子の厩舎(きゅうしゃ)掛の職名をもつものもいた。いずれにせよ、王太子が事前にジャンヌに関する情報を入手していたことは確かである。

 戦局の焦点は、1429年のロアール川中流のオルレアン市攻防にあった。ここを落とせば、イギリス軍はノルマンディーギュイエンヌという二つの占領地域をつなぐことができる。王太子としては、ここで敗北すればロアール川流域からさらに南に撤退しなければならない。そういう存亡の危機に立たされた王太子のもとに、王太子を救えという神の命令を受けたと称する女が現れた。王太子は、この女ジャンヌの志の誠実さを認め、オルレアンの守備隊に参加させた。信仰の熱情にあふれ、慣行にとらわれない戦闘指揮をみせるジャンヌは、兵士たちの心をとらえた。ジャンヌの率いる槍(やり)小隊は、日が暮れても戦闘をやめず、ついにイギリス軍が築いた砦(とりで)の一つを落とした。これが戦況を大きく変えた。同年5月上旬、イギリス軍はオルレアンから撤退した。オルレアンの戦いののち、ジャンヌはランスでのシャルル(7世)の戴冠(たいかん)式に列席し、北フランス諸都市を歴訪する「王の巡行」に、バロア王家の「神の証人」として、華麗な衣装を身にまとって同行した。ジャンヌの生涯の、これが華であった。

[堀越孝一]

異端にして聖女

翌1430年5月、ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、ブルゴーニュ方の軍勢に捕らえられた。身代金(みのしろきん)はイギリス王が支払い、ジャンヌはノルマンディーのルーアン城に留置された。シャルルは沈黙を守っていた。パリ大学神学部は、ジャンヌに異端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し、イギリス王家側もこれに同意し、法廷に身柄を引き渡した。裁判は、31年2月21日を初日として14回の審理を重ねた。教会の聖職者の仲介を経ず、直接神的存在に接触したと主張すること、異端嫌疑の根拠はここにあった。「地上の教会」の組織原理が、一少女の純な信仰によって試されている。宗教裁判官の審問は、ジャンヌの主張が、日ごろ目にする神的存在の画像に触発された心理的錯覚に出ることを論証することに的を絞っている。もし、これを少女が認めれば、少女の罪は聖像崇敬という信仰の迷いにほかならず、異端の嫌疑は消える。法廷は、ジャンヌの魂と肉体を救おうと試みたのである。少女の単純で純粋な信心がこれを拒んだ。同年5月28日朝、ジャンヌはルーアンの広場で異端を宣告されてイギリス王家のルーアン代官にその身柄をゆだねられ、代官は慣行どおり、異端女を火刑に処した。このルーアンの審決を、ローマ教皇庁はいまだ取り消していない。それでいて、1920年、教皇庁はジャンヌを聖女に列した。かくして、いま、ジャンヌ・ダルクは異端にして聖女である。

[堀越孝一]

『堀越孝一著『ジャンヌ・ダルク』(1975・清水書院)』『堀越孝一著『聖女ジャンヌ・ダルク』(『ヒロインの世紀5』所収・1977・千趣会)』『堀越孝一著『回想のヨーロッパ中世』(『人間の世界歴史6』1981・三省堂)』『アンリ・ギィユマン著、小林千代子訳『ジャンヌ・ダルクその虚像と実像』(社会思想社・現代教養文庫)』


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百科事典マイペディア 「ジャンヌ・ダルク」の意味・わかりやすい解説

ジャンヌ・ダルク

百年戦争時代のフランスの少女。通称ピュセル(乙女)。〈オルレアンの少女〉とも。フランス東部のロレーヌとシャンパーニュの間にあるドンレミ・ラ・ピュセル村の農家の出身。敗戦のフランスを救う使命を神から託されたと信じ,1429年王位継承権を奪われていたシャルル7世を助けてオルレアンを解放,ランスでの国王戴冠(たいかん)を実現させた。しかし1430年コンピエーニュ救出に赴いて英軍に捕らえられ,1431年ルーアンの宗教裁判により異端者として火刑に処された。1456年名誉回復のための宗教裁判が開かれ,1920年には教皇庁により聖女と定められた。祖国愛の象徴として親しまれ,詩,小説,戯曲などの題材とされる。
→関連項目オルレアンドライヤー魔女裁判柳寛順ルーアン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジャンヌ・ダルク」の意味・わかりやすい解説

ジャンヌ・ダルク
Jeanne d'Arc, (Sainte)

[生]1412頃.ドンレミ
[没]1431.5.30. ルーアン
フランスの聖女。百年戦争末期,フランスの危機を救った少女。「オルレアンの少女」とも呼ばれる。生来敬虔な性格であったと伝えられるが,直接に神の命を受けたと確信し,皇太子シャルル (のちのシャルル7世 ) の軍に参加した。皇太子の軍を鼓舞してイギリス軍包囲下のオルレアンに急行し,その解放に成功した (1429) 。この事件は百年戦争のなかで極度の劣勢に立っていたフランス王側の態勢立直しの転機となり,シャルルの戴冠式も可能となった。このためジャンヌの名はフランスの歴史に長く国民的英雄として伝えられることになった。彼女自身はコンピエーニュで敵方の手に捕えられ (30) ,ルーアンの教会法廷で異端と宣告され,同市の広場で火刑に処せられた (31) 。のちシャルル7世の命によって再審が行われ,1431年の有罪判決は破棄 (56) され,名誉が回復された。さらに 1920年列聖され,5月 30日がその祝日と定められた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジャンヌ・ダルク」の解説

ジャンヌ・ダルク
Jeanne d'Arc

1412~31

フランスの国民的英雄。聖女。東部のドンレミの生まれ。後期百年戦争でのフランスの危機を救い,形勢を逆転させた。神のお告げを信じて,シャルル7世の許可のもと,オルレアンの囲みを解き,ランスでの国王戴冠式を実現させた(1429年)。1430年コンピエーニュ救出におもむいて捕えられ,イングランド側に引き渡されたのち,ルーアンでの宗教裁判により異端を宣告され,火刑に処せられた。56年名誉回復。

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デジタル大辞泉プラス 「ジャンヌ・ダルク」の解説

ジャンヌ・ダルク〔架空の戦艦〕

ロボットアニメ「機動戦士ガンダム」のテレビシリーズのひとつ「機動戦士Vガンダム」に登場する宇宙戦艦。地球連邦軍主力宇宙艦隊の旗艦であるラー・カイラム級機動戦艦。全長487メートル。

ジャンヌ・ダルク〔航空母艦〕

《Jeanne d'Arc》フランス海軍の航空母艦。ヘリコプター母艦。1960年の起工時の予定艦名は「ラ・レゾリュー」。1964年就役。2010年退役。

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