ジャハーンギール(読み)じゃはーんぎーる(英語表記)Jahāngīr

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャハーンギール」の意味・わかりやすい解説

ジャハーンギール
じゃはーんぎーる
Jahāngīr
(1569―1627)

インド、ムガル帝国第4代の皇帝(在位1605~27)。アクバルの嫡子で、名はサリーム。母はラージプート人。父帝の晩年に二度謀反したが和解し、父の死後アグラで即位し、ジャハーンギール(世界征服者)と称した。父の宗教的寛容政策をほぼ踏襲し、また新旧貴族に高い禄位(ろくい)(マンサブ)を与えてその忠誠を取り付け、嫡子ホスローの乱を鎮圧し、頑強なメワールのラージプート人を服属させるなど支配の安定を維持した。しかし、酒におぼれて、1622年ごろから健康が衰えると、皇位継承の陰謀が激化し、皇后ヌール・ジャハーン一族の専権と第3皇子シャー・ジャハーンらの反乱による混乱中に崩じた。彼の回想録は、彼が絵画、文学を解し、自然の愛好者であったことを示している。

長島 弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジャハーンギール」の意味・わかりやすい解説

ジャハーンギール
Jahāngīr

[生]1569
[]1627
インド,ムガル帝国第4代の皇帝 (在位 1605~27) 。父王アクバル大帝の跡を継ぎ,ムガル帝国の全盛時代を実現した。軍事的にはアフガニスタンの要衝カンダハールを奪われ,デカン地方のアフマドナガルを失うなど,ムガル帝国の版図は若干縮小したが,イスラム宮廷文化はそのはなやかさを増した。彼自身も芸術を愛好し,みずから伝記『トゥーズケ・ジャハーンギーリー』 Tūzuk-i Jahangīrīを残している。しかし,その晩年にはアヘン好み,愛ヌール・ジャハーン専横を許すなど,ムガル帝室の腐敗を招いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジャハーンギール」の解説

ジャハーンギール
Jahāngīr

1569〜1627
インドのムガル帝国第4代皇帝(在位1605〜27)
アクバルの子。アクバルの征服事業を中断し,民力の休養につとめ,文芸を保護奨励した。しかし,宴楽にふけり,治世の間,宮廷に陰謀が絶えなかった。対欧貿易ののためキリスト教には寛大であった。閉され,のち病死。

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世界大百科事典 第2版 「ジャハーンギール」の意味・わかりやすい解説

ジャハーンギール【Jahāngīr】

1569‐1627
インド,ムガル帝国第4代皇帝。在位1605‐27年。第3代皇帝アクバルの長男で,母はラージプート出身。晩年の父に対して反乱を起こしたが許され,帝位を継ぐ。1611年,ヌール・ジャハーンと結婚。その弟アーサフ・ハーンは,ジャハーンギールおよび次の皇帝シャー・ジャハーン時代の宮廷第一の貴族として有名であり,妃ヌール・ジャハーン一族は,ムガル宮廷に大きな勢力をもった。ジャハーンギール統治の後半は,妃によって政治が左右されたといわれる。

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世界大百科事典内のジャハーンギールの言及

【ムガル細密画】より

…アクバル帝の治世末期には自然主義的傾向が強まり,肖像画が発達した。 次のジャハーンギール帝(在位1605‐27)は先帝にも増して絵を愛好し画家を保護して,ムガル絵画は最盛期を迎えた。ことに肖像画が流行し,単独の人物を描く場合もあるが群像的肖像画が好んで描かれた。…

※「ジャハーンギール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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