ジッド(André Gide)(読み)じっど(英語表記)André Gide

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ジッド(André Gide)
じっど
André Gide
(1869―1951)

フランスの作家。11月22日パリに生まれる。父はパリ大学法科教授。11歳のとき父を失い、厳格な母によって清教徒的な教育を受けた。小学校時代は病的な臆病(おくびょう)や自慰の悪癖のため成績は不良で幾度か退学し、学業の習得は不規則であったが、18歳のころピエール・ルイスを知り、彼に刺激されて文学熱が急に目覚めた。1891年、従姉(いとこ)マドレーヌに対する恋愛を中軸として、青春時の霊肉の格闘や精神的不安を描いた『アンドレ・ワルテルの手記』を発表した。のちジッド夫人となったマドレーヌをジッドは一生愛し続けたが、彼女の伝統尊重や清教主義に対する彼の順応と反発が一生を支配し、彼のほとんどの作品に彼女が濃い影を落としている。たとえば、自分の生命を享楽するために愛妻の生命まで犠牲にする『背徳者』(1902)、聖書の教えを守り抜いて自己犠牲のすえ死に至る女性の哀切な物語『狭き門』(1909)は、その代表的なものといえよう。

新庄嘉章

因襲的な順応主義への挑戦

『アンドレ・ワルテルの手記』の発表後、マラルメの門に入って象徴主義の影響を受け、いくつかの短い作品を発表したが、人の注意をひくには至らなかった。1893年、自分に厳しく課していた清教主義的な克己主義が魂の平衡を乱すものとなり、その苦悩から逃れるためにアフリカに旅立った。旅の途中で病気になり、ようやく健康を取り戻したのちは、生命を強烈に享楽するために過去のすべての絆(きずな)を捨てることを決心した。『パリュード』(1895)はそうした生命発見者の焦燥から生まれたものであり、『地の糧(かて)』(1897)はよみがえった生命に対する狂熱的な賛歌である。『背徳者』や『狭き門』によって文壇的地位を確保したジッドは1914年『法王庁の抜穴』を発表し、因襲的な道徳を超越した自由な行為を試みようとして動機のない殺人(いわゆる無償の行為Acte gratuit)をする青年を描いている。これは凡俗なブルジョア社会を風刺した一種の戯画でもある。

 第一次世界大戦中の4か年は、しばらく手放していた福音(ふくいん)書に読みふけった。このことは彼のカトリック教への改宗を熱望する人々に期待をもたせたが、ついに改宗しなかった。それどころか1916年ころから大胆な自己告白の書『一粒の麦もし死なずば』を書き始め、26年にこれを発表して世の良識者を驚かせた。またこのころ『田園交響楽』(1919)を書いたが、これは福音書の自由解釈と厳しい戒律の対立を扱った悲劇である。

[新庄嘉章]

厳しい自己省察

1926年、ジッドは自分のただ一つの小説と称する『贋金(にせがね)つかい』を発表した。彼は自分の小説的作品を彼独特の分類によって、物語(レシ)récit、茶番(ソチ)sotie、小説(ロマン)romanの三つに分けている。物語は厳しい自己省察から生まれるテーマを極限にまで追求した心理解剖的作品で、『背徳者』『狭き門』『田園交響楽』、人間の誠実と偽善を扱った『女の学校』三部作(1929~36)などがそれであり、茶番は知的遊戯の要素が強い風刺的作品で、『パリュード』『法王庁の抜穴』などがそれである。小説は単一のテーマではなく人生のあらゆる問題を扱ったもので、彼はこの作品によって純粋小説roman pureの見本を示そうと試みた。

 1925年ジッドはコンゴに旅立った。この旅行で、フランスの植民政策の犠牲になっている原住民の惨状をみて彼の目は社会問題に大きく開かれ、『コンゴ紀行』(1927)は広く世論を巻き起こした。その後、思想はしだいに左傾し、32年には共産主義への転向を宣言したが、36年に当時のソ連の文化鎖国主義と画一主義を現実に見て、『ソビエト紀行』(1936)でソ連を辛辣(しんらつ)に批判した。ジッドは数編の興味ある戯曲も書いたが傑作といえるものはなく、むしろ文芸批評に多くの優れた作品を書いている。なかでも『ドストエフスキー』(1923)はドストエフスキー研究に新生面を開いた名著である。

 1889年から1949年までの『日記』(1939~50)は、一生を自己に忠実に生き抜こうと努力した彼の厳しい自己省察の記録で、彼の生活と作品の謎(なぞ)を解く重要な鍵(かぎ)である。また彼は20世紀前半のフランス文壇に新風を吹き込んだ『NRF(エヌエルエフ)』誌の指導者として重要な役割も果たした。47年にはノーベル文学賞を与えられ、51年2月19日、栄光に包まれてパリで死んだが、死後刊行された『今や彼女は汝(なんじ)の中にあり』(1951)で愛妻マドレーヌが実は処女妻であった事実を告白し、ジッド愛好者に大きな衝撃を与えた。

[新庄嘉章]

日本への影響

わが国においては、彼の存在は1923年(大正12)以来、上田敏(びん)、竹友藻風、永井荷風によって紹介されていたが、23年山内義雄(よしお)の名訳『狭き門』によって一躍有名になった。その後、横光利一、野間宏(ひろし)、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平などが少なからぬ関心を示し、一時は大きなジッド旋風を引き起こした。世界的に著名な作家で彼ほど評価のまちまちな人はないが、人間の自由を追求した偉大な個人主義者として20世紀に残した足跡は大きい。

[新庄嘉章]

『新庄嘉章訳『アンドレ・ジイドの日記』全5巻(1950~52・新潮社)』『新庄嘉章著『アンドレ・ジイド』(1948・新樹社)』『中島健蔵著『アンドレ・ジード 生涯と作品』(1951・筑摩書房)』『『河上徹太郎著作集 第5巻』(1982・新潮社)』『新庄嘉章著『天国と地獄の結婚――ジッドとマドレーヌ』(1983・集英社)』

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