シリアカナン神話(読み)シリアカナンしんわ

改訂新版 世界大百科事典 「シリアカナン神話」の意味・わかりやすい解説

シリア・カナン神話 (シリアカナンしんわ)

近年のオリエント考古学は,シリア・カナン地域の神話について,それを生みだしたウガリト社会の研究を中心に,多くの画期的成果を提供している。長い間,砂に埋もれていたこの地域の神話に,最初の光が当てられたのは,たまたま畑を耕していたシリアの農夫の鋤の先からであった。1928年の春のことである。翌年フランス人考古学者による発掘隊が編成され,試掘開始後1ヵ月余で,海岸から1kmほど山手の〈ういきょうの丘(ラス・シャムラ)〉に広がる壮大な遺跡群を掘り当てることに成功したのである。主として第Ⅰ層および第Ⅱ層から,神殿遺構を中心に,ブロンズ製の神像をはじめ数々の青銅器が発掘された。とりわけ,ラス・シャムラの名を不朽にしたのは,バアル神殿書庫の一隅から発見されたおびただしい量にのぼる楔形文字で刻文された粘土板であった。粘土板は,たちまち世界の言語学者の注目を集め解読作業が開始された。このようにして,30年には,最初のラス・シャムラ刻文テキストが復元され,王室文書をはじめとして,これまで未知であったバアル神話やケレト王の叙事詩など古代ウガリト文学の全容が,初めて明らかにされたのである。

 それによると,これらの文書が記録された前14,前13世紀の時代,ウガリトは世襲による王制とかなり整備された官僚組織をもつ都市国家として,東部地中海世界に君臨していた。海上交易による膨大な収益を基礎に,他の近隣諸都市に対し軍事的支配権を行使し,それぞれ貢納,賦役,諸税を課し,牧畜農業,手工業,商業を中心としたギルド社会を基盤に経済的繁栄を誇示していた。粘土板に刻まれた諸王の叙事詩は,こうした都市国家形成以前にさかのぼるものと推定されるが,それによって当時のシリア・カナン地域の歴史・社会の未知の部分に,飛躍的な解明がもたらされた意義は画期的である。わけてもバアル神話は,同じセム族の文学として,イスラエル旧約聖書文学の研究に不可欠の史料を提供するものであり,その究明は,聖書学上,20世紀最大の考古学的成果の一つといわれている。バアル神話は,刻文全体に最大の分量を占める物語であるが,この神話の重要性は,イスラエル宗教を貫くヤハウェ信仰と多くの点で無視できない類似性を示す一方,他の面では,真っ向から対立する異質の神々が登場し,死と再生ドラマを展開する点にある。以下,その梗概を略述する。

バアルは豊穣の神で,しばしば〈雲に乗る者〉,あるいは稲妻と雷雨の神ハダド(アダド)とも呼ばれている。彼には父と母と兄弟たち,それに妹がいた。父の名はエール(セム族の最高神に共通の呼称。ちなみにバアルとはセム語で〈主〉を意味し,同じくセム系言語の〈わが主〉を意味するアドンあるいはアドニと同義語),大洋に君臨する最高神。母はアシュタロテ(アスタルテ),すべての神々の母であった。兄弟のひとりは,洪水の神ヤム・ナハルYam-Nahr,他のひとりは死の神モトMotで,火の空でもって大地を乾燥させる神である。バアルは,この2人の兄弟と王権をかけて雌雄を決しなければならない。それは文字どおりの死闘である。そうした運命を背負ったバアルのために,身命を賭して献身する妹神アナトAnatがいる。アナトは勝利の女神であり,バアル神話全体の中で決定的な役割を演じている。

 さて,バアルが闘わねばならなかった第1の相手はヤム・ナハル。彼は,父エールに強請して卑劣な策謀をめぐらしバアルの王権の奪取をはかるが,激怒したバアルに打ち負かされ,バアルの支配に屈服する。第2の闘争の相手はモト。この恐るべき火の神との闘争がバアル神話の中心となっている。物語は貪欲な怪獣の口の中に,バアルが飲みこまれていくところから始まっている。恐怖におののくバアルは絶叫してモトに隷属を誓う。バアルの姿が地上から消えると,大地は干上がり,緑の沃野は荒廃し,たちまち砂漠に一変する。父神エールは胸をかきむしってバアルの死を悲しむ。エールの悲嘆を見た女神アナトは,ひとりバアルを捜し求めて山野を漂泊し,バアルの死体を発見する。アナトの目からあふれでる涙は,ブドウ酒のようであったという。アナトはバアルの遺体を背にひき返し,泣く泣く埋葬する。それから数ヵ月が経過する。アナトのなかで,バアルへの慕情がたかまり,ついに抑えがたいものとなったとき,アナトはモトに戦いを挑み,モトの体をずたずたに切り刻み,挽臼でひいて野に捨てる。モトが死ぬと,バアルがふたたび戻ってくる。エールは歓喜して叫ぶ。〈アナトよ聴け,バアルはよみがえった〉と。

 物語は,アナトとバアルとの不思議な婚姻で終わっている。バアルは牡牛となってアナトの前にたち,アナトと交わるのである。バアル神話に見られる死と再生のドラマの背後には,季節の交替のドラマがある。バアル神話は,1年を二分する地中海世界の雨季と乾季の交替のドラマによって,生き生きしたリアリティを与えられている。再生したバアルとの祝婚の歓喜の中で,アナトはバアルの子を宿す。アナトに宿った生命は,大地の豊穣の確証なのである。
ウガリト
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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