ショーター(読み)しょーたー(英語表記)Wayne Shorter

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ショーター」の意味・わかりやすい解説

ショーター
しょーたー
Wayne Shorter
(1933―2023)

アメリカのジャズ・サックス奏者。ニュー・ジャージー州ニューアーク生まれ。ショーターの表現者としての関心は、当初美術方面に向かっていた。幼児期から絵が巧みで、13歳のとき州の美術展に応募し優秀賞を獲得している。高校に至ってようやく音楽にも興味を示したが、そのきっかけはデューク・エリントン、カウント・ベイシーなど第一級のビッグ・バンドの音楽に触れたことであった。16歳のとき親にクラリネットを購入してもらい練習に打ち込むうちに、絵画への欲求はしだいに音楽にとってかわる。学生バンドに参加するころには楽器テナー・サックスにもちかえ、レコーディングの話ももちあがったが断り、進学の道を選ぶ。高校を卒業するとミシン会社に就職して学資を稼ぎ、1952年ニューヨーク大学に入学。学生時代にはジャズ・クラブに通いつめ、このころ作曲にも手を染める。

 卒業後はサックス奏者ソニー・スティットSonny Stitt(1924―1982)、ソニー・ロリンズらの奏法を研究し自分のスタイルを築きあげつつあったが、1956年から1958年にかけて兵役にとられる。この間アーミー・バンドに所属し、週末にはジャズ・クラブへも出演したが、一番大きな体験は、マイルス・デービスクインテットの演奏を聴き、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンに触発されたことであった。1959年は彼にとって飛躍の年で、まず後の盟友オーストリアウィーンから渡米したばかりのピアノ奏者ジョー・ザビヌルと出会う。またこの年、ドラム奏者アート・ブレーキーの率いるバンド、ジャズ・メッセンジャーズの音楽監督に就任、期待の新人として注目を集める。それと同時にピアノ奏者ウィントン・ケリーのサイドマンとしてビー・ジェイ・レーベルに初レコーディングを経験し、直後には同レーベルに初リーダー作を吹き込む。ジャズ・メッセンジャーズには1964年まで在籍したが、この間、彼の才能に注目したマイルス・デービスから再三移籍の申し出があった。また1961年(昭和36)にはトランペット奏者リー・モーガンとともにジャズ・メッセンジャーズの一員として来日し、日本にファンキー・ジャズ・ブームを巻き起こす。

 1964年ようやくマイルス・デービス・バンド入りしたショーターは、単なるサイドマン以上の影響力を発揮し、1960年代後半のマイルス・デービス・バンドを活性化させる。この時期のサイドマンとしての傑作に、1967年録音のマイルスのリーダー作『ソーサラー』や、同じくマイルスの話題作で1968、1969年録音の『ビッチェズ・ブリュー』がある。後者ではソプラノ・サックスも演奏し、以後テナー、ソプラノを併用する。1969年には同バンドにキーボード奏者としてザビヌルが参加し、旧交を温める。ショーターは同バンド在籍中もブルーノート・レーベルにリーダー作を録音しているが、1970年に同バンドを辞めると、ショーター独自の音楽観の集大成『オデッセイ・オブ・イスカ』Odyssey of Iskaを録音する。そして翌1971年には、ザビヌルとの双頭バンド、ウェザー・リポートを結成し、アルバム『ウェザー・リポート』を発表、ジャズ・シーンに大きな話題を提供する。グループは1986年まで続くが、この間ショーター個人のリーダー作は、1974年の『ネイティブ・ダンサー』しか存在しない。1986年以降は独立し、アルバム制作、コンサートなど第一線で活躍を続けた。

 彼はずば抜けた楽器演奏能力と同時にコンポーザーとしての特異な才能も発揮し、特定の楽理に還元できない不思議なイメージ創出能力により、マイルスやザビヌルの音楽を活性化させた。そして彼が属したマイルス・デービス・バンドとウェザー・リポートという二つのグループは、1960年代後半から1970年代にかけてのジャズの大きな変革期に中心的な役割を果たしたバンドである。彼のジャズ史における位置づけは、今後、より重要性を増すであろう。

[後藤雅洋]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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