シュトラウス(Richard (Georg) Strauss)(読み)しゅとらうす(英語表記)Richard (Georg) Strauss

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

シュトラウス(Richard (Georg) Strauss)
しゅとらうす
Richard (Georg) Strauss
(1864―1949)

ドイツの作曲家、指揮者ミュンヘンで、当地の宮廷楽団の首席ホルン奏者フランツ・ヨーゼフシュトラウスとジョゼフィーネの長男として6月11日に生まれる。経済的に恵まれた幼少年時代を過ごし、4歳でピアノを学び、6歳で作曲を始めた。11歳で音楽理論、和声法を宮廷楽長F・W・マイヤーに学び、両親の希望で音楽学校へは行かず、1874年から8年間ルートビヒ・ギムナジウムに学び、続いて82~83年にミュンヘン大学で哲学、美学、芸術史の講義を聴いたが、音楽の勉強のため大学を去った。

 10歳のころワーグナーの『タンホイザー』などの演奏に触れて強い印象を得た。また16歳の春、彼自身の交響曲ニ短調(1880)その他が宮廷楽団で初演されたが、本格的な作曲活動は、1882年ごろからウィーンドレスデンベルリン、マイニンゲンで展開されていく。83~84年ごろ彼の作品を最初に出版したシュピツウェークの紹介で時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローを知り、ブラームス以来の最大の個性と折り紙をつけられた。ビューローの委嘱で作曲された『十三の吹奏楽器のための組曲』(1883~84)は、作曲家自身の指揮で84年ミュンヘンで初演され、指揮者活動も開始される。

 1885年にはマイニンゲン宮廷音楽監督に就任、翌年のイタリア旅行ののちミュンヘンに3年とどまる間にマーラー親交を結んだ。89年から4年間ワイマール宮廷劇場の第2楽長となり、この間に最初のオペラグントラム』(1894初演)を南方旅行の影響下で作曲。94年にソプラノの名花パウリーネ・デ・アーナと結婚する。そして94~99年の間に、彼の代表作の四つの交響詩、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1894~95)、『ツァラトゥストラはこう語った』(1895~96)、『ドン・キホーテ』(1896~97)、『英雄の生涯』(1897~98)や、多くの優れた歌曲が生み出されている。これらの交響詩は、リスト、ワーグナーの「未来音楽」をシュトラウス流に踏襲したもので、ここに交響詩作家としての不動の地位が築かれた。他方マーラー、ワインガルトナーと並び1890年代、1900年代の指揮活動の中心的存在として、ミュンヘン、ベルリン、ウィーン、ワイマールの歌劇場の指揮者を務め、世界各地も巡演。リスト、ワーグナー、レーガー、マーラー、シベリウス、そして自分の作品を指揮し、死ぬ2年前まで指揮活動をやめなかった。

 1900年代に入り、劇音楽に力を注ぎ始め、『サロメ』(1904~05)をはじめ、ホフマンスタールの台本による3作、『エレクトラ』(1906~08)、『ばらの騎士』(1909~10)、『ナクソス島のアリアドネ』(1911~12)が作曲され、いずれも好評を博した。これらオペラでは交響詩の理念がさらに推し進められ、ワーグナー的な官能性(サロメ)、表現主義(エレクトラ)、オペラ・ブッファ的簡素な手法(ばらの騎士)など多様な作風が開示されている。

 1933年にはナチスの音楽局総裁となったが、ナチス当局と対立し35年辞任した。第二次世界大戦終了後スイスに移ったが、ナチスに協力したかどで裁判にかけられ、無罪となり、静かな晩年を送り、49年9月8日、ガルミッシュ・パルテンキルヘンで没した。

 シュトラウスは、交響詩、オペラ、歌曲のどの分野においても、ドイツ後期ロマン派を体現した最後の巨人であり、指揮者としても後代に大きな影響力をもつ存在であった。

[船山信子]

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