シャンソン(フランスのポピュラー・ソング)(読み)しゃんそん(英語表記)chanson フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

シャンソン(フランスのポピュラー・ソング)
しゃんそん
chanson フランス語

「歌謡」「小歌」の意味で、一般にフランスのポピュラー・ソング、とくにパリを中心にした流行歌をさす。マス・メディアの発達とともに、アメリカをはじめ世界各国のヒット曲がフランスに入り、同国の歌手によっても歌われているので、広義にはすべてを含めてシャンソンとよんでも差し支えないが、伝統的なシャンソンには、他の国々の歌とは異なった特徴が認められる。なお、クラシック音楽におけるシャンソンとは、中世後期からルネサンスまでの多声世俗歌曲をさす(同名別項の「シャンソン」を参照)。

[永田文夫]

シャンソンの特徴

シャンソンでは、曲よりもむしろ歌詞が重要視され、物語風の内容をもつ歌が多い。歌詞は日常生活で使われるようなことばを用い、ときには隠語(アルゴ)を交えてつづられる。曲は、クープレ(ストーリー部分)とルフラン(繰り返し部分)とからなり、両者が交互に現れる。歌手は、声のよしあしや音楽的な正確さよりも、その歌をどのように解釈し、個性的な表現で聞き手に伝えるかという点(ディクション=語り方)を評価される。ある曲を初めて歌って成功させることをクレアシオン(創造の意で、創唱と訳される)というが、つまり歌手は作詞家・作曲家と共同して、歌に生命を与える役割を果たすとみなされているわけである。第二次世界大戦以前は、クレアシオンの意義が重んじられ、ある歌手が創唱したシャンソンを他の歌手が歌うことはほとんどなかった。

 さらに、単なる歌い手よりも、作者が自作を歌う、いわゆるシンガー・ソングライターが歓迎され、数も多い。なかでも、シャンソニエchansonnier(女性はシャンソニエールchansonnière)とよばれる詩人兼歌手がとくに敬意を払われた。シャンソニエが歌うシャンソンは、曲は他人の作品でもよいが、歌詞はかならず自分でつくり、しかも鋭い風刺を含み、気のきいたエスプリを備えていなければならない。このような伝統は古くから今日まで受け継がれ、『雨傘』などで知られるジョルジュ・ブラッサンスは、その第一人者として人々の敬愛を集めていた。

 もっとも、シャンソニエの定義は時を経てかなりルーズになり、作詞家兼歌手をすべてこの名でよぶ人もいる。また、古いシャンソンの作品集や、シャンソンを聞かせるある種の小屋のなかにも、シャンソニエとよばれるものがある。そのほか、曲の形やリズムはさまざまだが、メロディが美しく優雅で、親しみやすいことなども、シャンソンの特徴といえよう。

[永田文夫]

シャンソンの歴史

シャンソンの源は、中世の宗教的な伝道歌や、吟遊詩人の歌にまでさかのぼることができる。やがて中世が終わってルネサンスが訪れ、パリが名実ともにフランスの中心として栄え始めるとともに、シャンソンの主権は民衆の手に移る。17世紀初め、セーヌ川に架けられたポン・ヌフ(新橋)やその周辺には店が建ち並び、集まった人々を前にして、大道歌手たちが政府の高官や貴族を風刺した歌を歌って喝采(かっさい)を博した。彼らこそ、歌を職業とする最初のシャンソン歌手であったといえる。このように、歌で風刺することをシャンソネchansonnerといい、その作者兼歌手をシャンソニエとよぶようになったのである。

[永田文夫]

ベル・エポックまでの揺籃期

近代からベル・エポック(1900年前後の「よき時代」)にかけて、シャンソンを育てる温床となったのは、キャバレーやカフェ・コンセールであった。これらの店は、大道歌手たちに安定した職場を提供し、彼らは歌い方をくふうして聴衆を動員した。その結果、歌のテーマや歌手のスタイルも複雑になり、人気スターが誕生して、シャンソンは著しい発達を遂げる。

 キャバレーの前身は、カボーcaveauとよばれるシャンソニエたちのクラブであった。1773年、詩人のアレクシス・ピロンAlexis Piron(1689―1773)、シャルル・コレCharles Collé(1709―1783)、作家としても名高いクレビヨン・フィスの3人が共同出資し、「カボー」という店を根城にして、ディナーとシャンソンのクラブをつくったのがその始まりである。これが評判となってしだいにメンバーが増え、ほかにも同様なカボーがつくられた。いずれも詩人や文学者を主にした会員制のクラブであったが、1804年には労働者たちによる大衆的なシャンソン・クラブも生まれ、こちらのほうはゴゲットgoguettesという名でよばれた。

 1878年、シャンソニエのエミール・グードーÉmile Goudeau(1849―1906)は、パリのカルチエ・ラタンに「水治療養者クラブ」という変わった名前のクラブを設立した。そのメンバーに詩人や音楽家だけでなく、学生や聴衆をも加えたが、結果は大成功で、1879年には彼らによる日刊新聞まで発刊されたほどであった。これが最初の芸術的キャバレーである。1881年、モンマルトルに有名なキャバレー「シャ・ノワール」(黒猫)がつくられた。そのメンバーとなって名声を博したのが、「近代シャンソンの祖」といわれるシャンソニエ、アリスチード・ブリュアンAristide Bruant(1851―1925)であった。シャ・ノワールは1885年に移転され、会員制を廃して一般客にも開放された。

 キャバレーと並んでシャンソンの発達に貢献したのがカフェ・コンセールで、これは要するに音楽を聞かせる飲食店である。17世紀後半、初めてフランスに出現したカフェ(喫茶店)は、売り物とするコーヒーの普及とともに数が増え、互いの競争が激しくなった。そこで客寄せの手段が講じられ、1759年にはカフェの前の通りにおいてショーが催された。1770年ごろになると、店内で歌を聞かせるカフェ(カフェ・シャンタンcafé chantant)が現れた。これをさらに整備して、一種のコンサートの形にしたのがカフェ・コンセールである。19世紀後半に至って、この種のカフェは大いに流行した。

 ベル・エポックのころ、カフェ・コンセールの大スターとして人気を博したのは、女性歌手のイベット・ギルベールYvette Guilbert(1865―1944)であった。彼女は、シャンソンのディクションを確立し、1928年に『シャンソンの歌い方』という本を書いて、ほかの歌手にも大きな影響を与えた。このカフェ・コンセールを舞台に活躍したスターとしては、フェリックス・マイヨールFélix Mayol(1872―1941)、ハリー・フラグソンHarry Fragson(1869―1913)らの名があげられる。こうして、現代シャンソンの基礎は20世紀初めに固まった。

[永田文夫]

ミュージック・ホールの隆盛

やがて第一次世界大戦によってベル・エポックに終止符が打たれ、その後のシャンソンの主導権は、カフェ・コンセールからミュージック・ホールへと移る。ミュージック・ホールは、カフェ・コンセールより規模が大きく、ステージではシャンソンのほか、ときには踊りや芝居を交えたショーが繰り広げられる。そして、カフェ・コンセールと違って、客は飲食物をとる義務を負わず、入場料を払って鑑賞する。ミュージック・ホールという英語名の示すとおり、その起源はイギリスにある。1840年、ロンドンのウィンチェスター・ホールで歌を含むさまざまな演目の興行が行われたが、これがこの種のショーの始まりである。フランスのカフェ・コンセールも、19世紀の後半、これをまねてサーカスのようなショーを取り入れたりするようになり、その成功がより広くて設備の整ったミュージック・ホールの設立を促した。こうして、パリに「ゲーテ」(1868年設立)、「フォリー・ベルジェール」(1869年設立)、「カジノ・ド・パリ」(1868年カフェ・コンセールとして発足、1890年に移転してミュージック・ホールとなる)などが次々に誕生した。ただし、ミュージック・ホールの名称がフランスでも用いられたのは1893年、ジョゼフ・オレーJoseph Oller(1839―1922)という人が、同年設立した「オランピア」をこの名でよんだのが最初である。「オランピア」は現在もシャンソンの殿堂として名高い。

 初期のミュージック・ホールでは、シャンソンはさほど重要な地位を与えられていなかったが、しだいに演目の中心を占めるようになった。そのステージの構成方法として、歌い手や芸人が次々に登場して出番を埋めるという行き方(トゥール・ド・シャンtour de chant)のほか、ミュージック・ホールならではの大掛りなレビューが制作された。これは、装置や照明を豪華にして、歌と踊りとアトラクションを結び付けたシーンを次々に展開させ、全体として一つにまとめたものである。

 パリのミュージック・ホールにおける最初のレビューは、1886年にフォリー・ベルジェールで上演された『若者たちの広場』というショーであった。20世紀に入って、1910年ごろから、ほかのミュージック・ホールもレビューを打ち出して人気をよび、そして、第一次世界大戦が終わると、戦勝気分ともマッチして、レビューの全盛時代が訪れた。

 当時多くのレビューに主演し「ムーラン・ルージュの女王」とよばれたのがミスタンゲットで、1926年に彼女が創唱したレビューの主題歌『サ・セ・パリ』は全世界に知られている。彼女の相手役を務めて世に出たモーリス・シュバリエは、その後アメリカへ渡って映画スターとしても名をあげた。一方、1925年にアメリカからパリへ来たジョセフィン・ベーカーは、1930年にカジノ・ド・パリのレビューで『二つの愛』を創唱して大ヒットさせ、ミスタンゲットに続くレビュー界の女王となった。

 1920年代から1930年代にかけてのパリでは、華やかなレビューが話題をにぎわす反面、不安な世相を反映して、暗い現実的なシャンソン(シャンソン・レアリスト)が興隆して、多くのファンに愛好された。その中心となった歌い手が、「三大シャントゥーズ・レアリスト」(現実派女性歌手)といわれたイボンヌ・ジョルジュYvonne George(1896―1930)、フレールFréhel(1891―1951)、そしてダミアである。ことにダミアが歌った『かもめ』(1930年録音)、『暗い日曜日』(1936)などは、レコードを通じて日本にも紹介されて多くのファンを集め、暗い深刻な歌がシャンソンの主流であるという固定観念を植え付ける結果になった。

[永田文夫]

1930年代

1930年代に入ると、シャンソン界に大きな変革が起こる。すなわち、1930年、映画監督ルネ・クレールによるトーキー映画第一作『巴里(パリ)の屋根の下』がつくられ、主題歌が大ヒットした。その後も、『人の気も知らないで』(1930年の映画『ソラ』の主題歌)、『マリネラ』(1936)など、映画主題歌のシャンソンが次々に流行、なかでも『巴里祭』(1933)は、リス・ゴーティLys Gauty(1908―1994)のレコードで日本にも紹介され、広く愛唱された。1931年には放送が実用化されて三つの国営放送局がスタートし、電波がシャンソンの新しい媒体となった。レコードも普及し、1930年度からACC(アカデミー・シャルル・クロ)のディスク大賞が制定され、1931年5月、第1回の結果が発表されたが、シャンソンでは、リュシエンヌ・ボアイエLucienne Boyer(1903―1983)が歌う『聞かせてよ愛の言葉を』が受賞した。

 このような情況のもとに、シャンソンそのものも新たな要素を吸収して、しだいに変化していった。ジャズの手法は、1920年代からすこしずつシャンソンのなかに取り入れられていたが、これを巧みに消化して、早口でリズミカルに歌う唱法を開拓し、成功を収めたのが女性歌手兼作曲家のミレイユMireille(1906―1996)である。ジャン・サブロンJean Sablon(1906―1994)は、ステージの上でマイクロフォンを初めて使ったシャンソン歌手として知られているが、1933年にジャズ・ギターの名手ジャンゴ・ラインハルトのトリオを伴奏に起用した。また1936年には、発声法や音響装置を研究して、ソフトな声を客席のすみずみにまで響かせ、聴衆を驚かせて、「フランスのビング・クロスビー」などといわれた。

 ステージだけでなく、レコード、放送、映画といった媒体を活用して、空前の人気をかちとったのが、「シャンソン界のナポレオン」こと、コルシカ島出身の二枚目歌手ティノ・ロッシである。彼は1934年カジノ・ド・パリのレビューに出演してスターになり、その主題歌『ビエニ・ビエニ』のレコードは45万枚という、当時としては記録破りのセールスをあげ、アメリカでもベストセラーの第1位を占めた。1936年には映画『マリネラ』に初出演してルンバ調の主題歌を大ヒットさせた。ルンバやタンゴなども1930年代にヨーロッパで大流行し、これらのラテン・リズムを使ったシャンソンが数多くつくられた。

 一方、ジャン・コクトーから「歌う狂人」と評されたシャルル・トレネは、ミレイユが開拓した道を推し進めてジャズとシャンソンを融合させ、自作自唱の『ブン』(1938年度ディスク大賞)によって名声を確立。その後も彼は『ラ・メール』(1938、録音は1946)、『カナダ旅行』(1951年度ディスク大賞)、『詩人の魂』(1951、イベット・ジローの歌で1952年度ディスク大賞)、『街角』(1954)などのヒット曲を次々に発表して、シャンソンに革命的な進歩をもたらしたのである。

 第二次世界大戦中シャンソンは沈滞したが、リナ・ケッティRina Ketty(1911―1996)が歌う『待ちましょう』(1938年録音、原曲はイタリアのカンツォーネ『トルネライ』)など、反戦気分を託したセンチメンタルな歌が愛唱された。

[永田文夫]

第二次世界大戦後の最盛期

第二次世界大戦後、パリのシャンソン界は一気に花盛りとなった。ジョルジュ・ユルメールGeorges Ulmer(1919―1989)はパリ解放の喜びを歌って人気を集め、『ピギャール』(1945)などのヒットを放って達者なエンターテイナーぶりを発揮し、「シャンソン界のチャップリン」とよばれた。1946年にはイベット・ジローが、レコード会社や放送局にバックアップされて『あじさい娘』でデビューした。1947年には戦争で中断されていたディスク大賞が復活され、リュシエンヌ・ドリールLucienne Delyle(1917―1962)が歌う『私を抱いて』などが受賞した。1948年、ジャクリーヌ・フランソアJacqueline François(1922―2009)が、映画『パリのスキャンダル』のサウンドトラックに主題歌の『パリのお嬢さん』を吹き込んでスターになった。1949年にはリーヌ・ルノーLine Renaud(1928― )の歌う『カナダの私の小屋』がディスク大賞を受賞し、彼女はその後レビュー界のトップスターとして活躍した。ジャン・サブロンを手本にした男性歌手のアンドレ・クラボーは、『小さな駅馬車』で1950年度のディスク大賞を受賞した。彼はほかにも『バラ色の桜んぼの木と白いリンゴの木』『ドミノ』(いずれも1950)などのヒットを放ってレコード会社のドル箱歌手となり、その甘い美声で「魅惑のシャンソンの王子様」というニックネームでよばれた。

 こうして、1950年ごろ、第二次世界大戦後のシャンソンは最盛期を迎える。当時活躍した歌手は枚挙にいとまがないが、「シャンソンの女王」として君臨したのは、シャンソン界最大の女性歌手といわれるエディット・ピアフであった。彼女自身の作詞による『バラ色の人生』(1945マリアンヌ・ミッシェルMarianne Michel創唱、ピアフの録音は1946)、『愛の賛歌(さんか)』(1950)は、シャンソンの代表的名歌として全世界に知られている。1951年度のディスク大賞を受賞した『パリの騎士』はアメリカでも『青春の思い出』という歌になってヒットした。1952年度からは、従来のACCのほかに、ADF(アカデミー・デュ・ディスク・フランセ)のディスク大賞が発足したが、その第1回受賞作も、ピアフが歌った『パダン・パダン』であった。ほかにも『ミロール』(1959)、『水に流して』(1960)など数多くの名唱を残し、四度の自動車事故にあって満身創痍(そうい)となりながら、命がけで前後5回オランピアで長期リサイタルを行い、劇的な生涯を送った。

 ピアフはまた、多くの恋愛遍歴でも名高い。イブ・モンタンは彼女に勧められてレパートリーを一新し、男性的な歌声で四度ディスク大賞を受賞、映画界にも進出して、1946年の映画『夜の門』のなかで名曲『枯葉』を創唱したほか、1948年には『パリで』などを大ヒットさせて、その作者兼歌手のフランシス・ルマルクFrancis Lemarque(1917―2002)を世に出した。ジルベール・ベコーも、ピアフの知己を得て成功のきっかけをつかみ、『十字架』(1953)、『君踊る時』(1954、ADFディスク大賞)、『そして今は』(1962)などを作曲、ダイナミックな唱法で新境地を開拓した。「今日のシャンソンの父」ともいわれるシャルル・アズナブールも、ピアフに認められたのち、独自のリズム感とノスタルジックな詩情によって最高の人気をかちとり、『ラ・マンマ』(1963)、『帰り来ぬ青春』(1964)など多くのヒットを放った。『ミロール』を作詞したギリシア人のジョルジュ・ムスタキや、『水に流して』の作曲者シャルル・デュモンCharles Dumont(1929― )らも、ピアフの恩恵を受けたアーティストである。

[永田文夫]

左岸派

このような動きとは別に、第二次世界大戦後のパリでは、セーヌ川左岸の地区サン・ジェルマン・デ・プレを中心に、「左岸派rive gauche」ともいうべき知性的なシャンソンが発達した。1947年に開店したキャバレー「タブー」が、実存主義の大御所サルトルや、詩人、文学者、学生たちのたまり場となり、この店に出入りしていたジュリエット・グレコは「実存主義のミューズ」として、1949年にデビューした。モナコ出身のレオ・フェレもサン・ジェルマン・デ・プレを根城にして活躍し、その作品『パリ・カナイユ』(1952)は、女性歌手カトリーヌ・ソバージュCatherine Sauvage(1929―1998)の歌で1953年の大ヒットとなった。マルセル・ムルージMarcel Mouloudji(1922―1994)が創唱した『脱走兵』(1954)の作者ボリス・ビアンも、キャバレー「タブー」のジャズ・トランペッターであった。1954年の映画『フレンチ・カンカン』の主題歌である『モンマルトルの丘』をサウンドトラックに吹き込んで世に知られたコラ・ボケールは、詩人ジャック・プレベールの作品を歌って三度ディスク大賞を受賞している。

 モンマルトルで「シェ・パタシュー(パタシューの家)」という店を経営する女性歌手パタシューPatachou(1918―2015)に勧められ、1952年にデビューしたのがジョルジュ・ブラッサンスである。彼は親しみやすい民謡調のメロディに乗せて、官憲や世俗的社会を痛烈に風刺したシャンソンを書き、「現代の吟遊詩人」「戦後最大のシャンソニエ」などとよばれた。1954年には『雨傘』『墓掘り人夫』によってACCディスク大賞を受賞して名声を確立。ギターの弾き語りで左岸のミュージック・ホール「ボビノ」にたびたび出演して、労働者階級や一般庶民層から圧倒的な支持を受けた。

[永田文夫]

ロック調シャンソンの波

1950年代の後半になると、アメリカにおこったロックがフランスにも紹介されて若者たちを酔わせ、シャンソンにも影響を与え始める。そのなかにあって、1956年にデビューしたダリダDalida(1933―1987)はインターナショナルな感覚で成功を収め、ベルギー出身のジャック・ブレルは、あくまでも自己に忠実に、つねに死を見つめながら孤高の境地を守り続けて、『愛しかない時』(1956)、『行かないで』(1959)などの名作を発表し、それぞれACCおよびADFのディスク大賞を受賞した(LP盤)。

 1960年代に入ると、ロック調の歌が爆発的に流行し、イエ・イエyé-yéとよばれた。このイエ・イエのトップスターがジョニー・アリデイであり、彼と結婚(のちに離婚)したシルビー・バルタンSylvie Vartan(1944― )は「イエ・イエの女王」の座につき、映画『アイドルを探せ』(1963)の主題歌などによって日本でも人気を獲得した。

 また、ベルギー出身のアダモは、イエ・イエと従来のシャンソンとの中間的なスタイルをとり、1962年『サン・トワ・マミー』のヒットでデビューを飾った。一方、動乱でアルジェリアから引き揚げたエンリコ・マシアスEnrico Macias(1938― )は、親しみやすい曲調で愛と平和を訴え、『恋心』(1964)などのヒットを放った。

 1960年代の後半になると、ミレイユ・マチューが「エディット・ピアフの再来」と騒がれて、『愛の信条』(1966)でデビューする。「ロックとロマンの融合」というキャッチ・フレーズで日本でも人気を博したミッシェル・ポルナレフMichel Polnareff(1944― )がデビューしたのも、同じく1966年のことである。彼らの歌は、日本ではフレンチ・ポップスという名でよばれた。『マイ・ウェイ』の原曲『いつものように』(1967)を創唱したクロード・フランソアClaude François(1939―1978)も、ジョニー・アリデイと並ぶ人気を誇っていた。

 他方、1965年の第10回ユーロビジョン・コンテスト(ヨーロッパ諸国の国営テレビ連合によるソング・コンテスト)で、フランス・ギャルFrance Gall(1947―2018)が歌ってグランプリを獲得した『夢見るシャンソン人形』を作詞・作曲し、その名を世に知られたのが、才人セルジュ・ゲンスブールSerge Gainsbourg(1928―1991)である。彼はシャンソン作家として注目を浴びたのち、1958年から歌手としても歌い始め、デビュー・アルバムによって1959年のACCディスク大賞を受賞した。以降、映画界にも進出して次々に革新的なシャンソンを発表、1969年にはイギリス人女優ジェーン・バーキンJane Birkin(1946―2023)を相手に、『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』というエロティックな歌を録音し、スキャンダラスな話題をまくとともに、その生き方が若い世代の心をとらえて、時代の寵児(ちょうじ)ともなった。

[永田文夫 2018年1月19日]

1970年代以降

1970年代には、ロックの波もようやく収まり、深い内容のある歌が見直され、本格派の歌手が台頭する。左岸のキャバレーでデビューし長い間不遇であったユニークな女性歌手兼作詞・作曲家バルバラBarbara(1930―1997)の『黒いワシ』(1970)がヒットしたのも、その表れの一つであろう。1973年には、堂々たる歌唱力をもつミッシェル・サルドゥーMichel Sardou(1947― )が『恋のやまい』で、セルジュ・ラマSerge Lama(1943― )は『灰色の途(みち)』で人気を確立した。

 その後も、ディスコ調、ポップス調など、時の流行に応じてシャンソンは目まぐるしく変化し、1980年代にはレ・アール地区を中心とする若者たちによる新しい波がおこって、きわめて複雑な様相を呈するに至った。しかし反面では、シャンソンの伝統はかたくなに守られていることも見逃せない。1980年代のシャンソン界に登場した新進のなかでも、とくに注目すべきはシンガー・ソングライターのジャン・ジャック・ゴールドマンJean-Jacques Goldman(1951― )であろう。彼は、グループ活動を経てソロ歌手として独立し、1981年にソロ・アルバムを発表して成功を収めた。その作品は、現代的な歌詞でありながら、従来のシャンソンと相通ずるロマンチックなメロディをもち、幅広い層のファンを獲得した。パトリシア・カースPatricia Kaas(1966― )やカナダ出身のセリーヌ・ディオンCeline Dion(1968― )といった、ほかの歌い手にも曲を提供し、アレンジやプロデュースを担当するなど、多彩な才能を発揮している。

 1985年にデビューした女性歌手のパトリシア・カースは、1987年に発表した『マドモアゼル・シャント・ル・ブルース』によって、1988年の各種新人賞を総なめにし、たちまちスターダムにのしあがって、1990年代を通じてのトップスターとなった。20世紀末から21世紀にかけて、ほかにも多くの新人がデビューし、ジャック・ブレルの作品やエディット・ピアフのレパートリーを取り上げるなど、往年のシャンソンがリバイバルする傾向がみられる。シャンソン界は世代の交代期を迎えたといえよう。

[永田文夫]

シャンソンの種類

シャンソンは、そのテーマが幅広く、歌い方もさまざまなため、とくに決まった分類法があるわけではないが、便宜上、種々の型に分けられる。ここには、いくつかの例をあげておく。

(1)シャンソン・ポピュレールchanson populaire 「民衆の歌」の意。英語のポピュラー・ソングと同様に、いわゆる流行歌をさす場合もあるが、シャンソン史では読み人知らずの民謡、およびこれに準ずるものをいう。

(2)シャンソン・サバントchanson savante 「学識のあるシャンソン」「高級なシャンソン」の意。シャンソン・ポピュレールに対して、作者の明確なものをいう。中世の宮廷を中心に発達し、恋の歌が多かった。歌詞の形も整い、曲も芸術的で、近代シャンソンの発達を促した。

(3)シャンソン・ド・ジェストchanson de geste 普通「武勲詩」と訳される。中世のころに発達した叙事詩の一種で、おおむね騎士や王の武勲をたたえた内容をもち、歌うというより吟唱された。

(4)コンプラントcomplainte 中世にプロバンス地方からおこった世俗的な歌曲の一種。ロマンチックな悲恋物語や、宗教的な受難などがつづられ、哀愁を含んだメロディをもつ。16世紀ごろから、主としてジョングルールとよばれる吟遊詩人によって盛んに歌われた。この名称は現代にも伝わり、シャンソンの題名にしばしば用いられて、「哀歌」「嘆き節(ぶし)」などと訳されている。

(5)ロマンスromance 元来は中世の吟遊詩人が歌った長編の感傷的な物語歌であったが、その後しだいに甘くやさしい歌を広くこの名でよぶようになり、器楽曲にも適用された。19世紀につくられた『桜んぼの実るころ』なども、広義のロマンスの一種とみなすことができよう。現代のシャンソンにも、この系統に属するものが多い。

(6)シャンソン・リテレールchanson littéraire 「文学的シャンソン」の意。シャンソン・ポピュレールに対して、シャンソン・サバントと同様な意味でも用いられるが、一般には詩人の詩に作曲家が節づけた作品をいう。1567年に詩人のジャン・アントアーヌ・ド・バイフと音楽家のチボー・ド・クルビーユJoachim Thibault de Couriville(?―1581)が「詩と音楽のアカデミー」を設立してから、このジャンルのシャンソンが発達した。17世紀に入って大いに興隆し、やがて18世紀のカボーや19世紀の芸術的キャバレーがそのおもな舞台となった。第一次世界大戦後はいささか影が薄くなったが、第二次世界大戦後、復興の兆しをみせ、今日のシャンソン界にも受け継がれている。アポリネールの詩による『ミラボー橋』や、ルイ・アラゴンの詩による『エルザの瞳(ひとみ)』などはその好例。

(7)シャンソン・レアリストchanson réaliste 「現実的なシャンソン」の意。恋をテーマにしたものが多いが、物語をドラマチックに展開させ、現実の庶民生活のもっとも暗い面をリアリスティックに描き出す。好んで取り上げられる主人公は、やくざ者や娼婦(しょうふ)、舟乗りや兵士などで、下町や港がドラマの舞台となる。この種のシャンソンは19世紀の末ごろから台頭し、アリスチード・ブリュアンらによって数多くつくられた。これをおもなレパートリーとする女性歌手をシャントゥーズ・レアリストという。男性ならばシャントゥール・レアリストだが、このジャンルの歌手はほとんどが女性。第二次世界大戦後、この種のシャンソンは急速に下火となった。ピアフは最後のシャントゥーズ・レアリストであったといわれる。

(8)シャンソン・ファンテジストchanson fantaisiste 「幻想的シャンソン」と訳される。さまざまなタイプを含む漠然とした分類で、自由自在に空想を働かせてつくったシャンソンをいう。才気にあふれ、コミックな要素をもっていて、おもにカフェ・コンセールやミュージック・ホールのステージで歌われた。これをレパートリーとする男性歌手をシャントゥール・ファンテジストといい、モーリス・シュバリエ、シャルル・トレネらがこのジャンルに入る。女性の場合はシャントゥーズ・ファンテジストというが、きわめて数が少ない。

(9)シャンソン・ド・シャルムchanson de charme 「魅惑のシャンソン」の意。おもに愛をテーマにした甘いシャンソンのことで、これを歌う男性歌手をシャントゥール・ド・シャルムという。このことばは1930年代にティノ・ロッシに対して初めて用いられ、アンドレ・クラボーに受け継がれた。女性の場合はシャントゥーズ・ド・シャルムで、リュシエンヌ・ボアイエらがこれに属するが、むしろシャントゥーズ・サンチマンタル(感傷的女性歌手)とよばれることが多い。

 そのほか、シャンソン・ポリティークchanson politique(政治的シャンソン)、シャンソン・アンガージェchanson engagée(プロテスト・ソングのこと)、シャンソン・ド・メチエchanson de métier(職業に関するシャンソン)など、いろいろな呼び名で分類される。

[永田文夫]

日本におけるシャンソン

日本にシャンソンが本格的に紹介されたのは、1927年(昭和2)に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー『モン・パリ』を初演してからのことである。以降『パリゼット』『花詩集』などのレビューの主題歌として、いくつかのシャンソンが使われた。1931年には田谷力三(たやりきぞう)の歌で『巴里の屋根の下』がヒットし、その影響でアコーディオンが流行した。

 佐藤美子(よしこ)(1903―1982)もいち早くシャンソンを取り上げて先駆者的役割を果たしたが、とくに淡谷(あわや)のり子は『暗い日曜日』(1936)、『人の気も知らないで』(1938)などの大ヒットを放って、第二次世界大戦前の日本にシャンソンを浸透させた。戦後、1953年(昭和28)にフランス帰りの高英男(こうひでお)(1918―2009)が歌う『ロマンス』がヒットし、1955年にはイベット・ジローが初来日してシャンソン・ブームが巻き起こった。石井好子(よしこ)(1922―2010)、芦野宏(あしのひろし)(1924―2012)、丸山明宏(あきひろ)(後の美輪(みわ)明宏、1935― )ら、多くのシャンソン歌手が活躍し、1963年には中原美紗緒(みさお)(1931―1997)が『夜は恋人』(原題は『メア・キュルパ』)を歌って成功を収める。翌1964年には越路吹雪(こしじふぶき)の『サン・トワ・マミー』、1965年には岸洋子(1935―1992)の『恋心』が大ヒットして、アダモやエンリコ・マシアスの来日に道を開いた。その後は長い低迷期が続いたが、昭和50年代後半に至って金子由香利(ゆかり)の成功を機に、復興の気運がうかがえた。しかし、ファンの年齢が高くなるにつれて、若年層を対象とするラジオやテレビ放送、レコードやCDなどのマス・メディアから、しだいにシャンソンが疎外されてきたことは否めない。その結果、本場の情報も入りにくくなり、新しいスター歌手も誕生しなくなった。

 だが皮肉なことに、シャンソン愛好者は確実に増加している。石井好子が1963年(昭和38)に始めた「パリ祭」(7月14日のフランス革命記念日を祝ってのシャンソン・コンサート)は21世紀に入っても続けられ、1991年(平成3)に設立された「日本シャンソン協会」は、アマチュアを含めた多数のシャンソン歌手が会員となっているなど、ほかのジャンルにはみられない活況を呈している。歌手の実演を売り物にする店もシャンソン関係が大半を占め、都会を中心に設立された多数のシャンソン教室も満員の盛況である。ただし、日本のシャンソン歌手は、通常フランス語ではなく、かならずしも原詞に忠実ではない日本語歌詞で歌っている。いまや日本のシャンソンは、本場フランスのシャンソンから遊離して、演歌には飽き足らず若者の嗜好(しこう)にはついていけない中高年層を対象に、日本独自の音楽ジャンルを形づくっているといえよう。

[永田文夫]

『永田文夫著『世界の名曲とレコード シャンソン』(1984・誠文堂新光社)』『蘆原英了著『エンサイクロペディア・アシワラ3 シャンソンの手帖』(1985・新宿書房)』『菊村紀彦著『ニッポン・シャンソンの歴史』(1989・雄山閣出版)』『藪内久著『シャンソンのアーティストたち』(1993・松本工房)』『ピエール・ドラノエ、アラン・プーランジュ著、植木浩訳『ラ・ヴィ・アン・ローズ――シャンソン・ド・パリへの讃歌』(1997・クロスロード)』『F・ヴェルニヤ、J・シャルパントロー著、横山一雄訳『シャンソン』(白水社・文庫クセジュ)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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