シメオン1世(英語表記)Simeon Ⅰ

改訂新版 世界大百科事典 「シメオン1世」の意味・わかりやすい解説

シメオン[1世]
Simeon Ⅰ
生没年:864-927

ブルガリアの公(在位893-913か918),皇帝(在位913か918-927)。ボリス1世の第3子。コンスタンティノープルで教育を受け,兄が公位を追われた後,公に推された。同時に首都プリスカからブルガリア東部のプレスラフPreslavに移された。豊かな教養人であった彼は政治家としても優れ,国内のキリスト教化と国力増強に努め,数多くの戦いでビザンティン軍や近隣の諸国を破り,前後3回にわたってコンスタンティノープルに迫り(896,913,923),貢納を義務づけた。また〈ブルガリア人の皇帝〉を称することを認めさせ(913),後にはブルガリア教会を独立させて総主教座を置き,〈ローマ人の皇帝〉と称した(918)。927年ビザンティン帝国に対する決定的な戦争を準備中に急死した。彼の時代に第1次ブルガリア帝国はバルカン半島の大部分を支配して最盛期に達し,首都プレスラフ,旧都プリスカ,西部オフリトは,スラブ文化圏の宗教,文学,芸術,建築文化の中心的役割を果たした。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シメオン1世」の解説

シメオン1世(シメオンいっせい)
Simeon Ⅰ

864~927(在位913~927)

ブルガリアの公(在位893~913),皇帝。864年キリスト教を受容した公ボリス1世(在位852~889)の第3子。コンスタンティノープルで教育を受け修道士となるが,兄ヴラディミル(在位889~893)に代わり公となり,プリスカからプレスラフに遷都し,スラヴ語を公用語化した。3度(896年,913年,923年)にわたりコンスタンティノープルに迫り,ビザンツ帝国から一時貢納を受け,913年には「ローマ人とブルガリア人の皇帝(ツァール)にして専制君主」の称号を用いた。シメオン統治期の第1次ブルガリア帝国は,アドリア海にまで領土を広げバルカン半島の一大勢力となったが,戦争により民衆は疲弊し財政は逼迫した。新旧の首都やオフリドはスラヴ・キリスト教文化圏の中心地ともなった。

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世界大百科事典(旧版)内のシメオン1世の言及

【皇帝】より

…ここから,ゲルマン語では,たとえば現代ドイツ語のカイザーKaiserが,スラブ語でも,たとえば現代ロシア語のツァーリtsar’が生まれた。tsar’称号もまた,imperator称号と同じく中世でビザンティン帝国のbasileus称号と等置されたが,そのtsar’称号を,920年代にはブルガリア人シメオン1世が(先行ブルガリア人支配者の称号khan=汗にかわって),1346年の戴冠式にはセルビア人ステファン・ドゥシャンが(kralj称号にかえて),1547年の戴冠式にはロシア人イワン4世が(先行支配者たちが最初に帯びていたknyaz’(公)称号,のちに帯びるようになったvelikii knyaz’(大公)称号の代りに),それぞれとなえたのは,いずれも,ビザンティン帝国の標榜する世界皇帝理念に対するみずからの態度表明としてであった。なお近代では,ピョートル大帝が,tsar’称号を廃して,代りに西方のimperatorを公式称号に採用したけれども,tsar’称号は依然として民間で存続した。…

【ブルガリア】より

…この改宗は,今日まで,ブルガリアの文化的,政治的な方向に大きな影響を与えることになった。
[第1次ブルガリア帝国]
 ボリスの後を継いだ息子のシメオン世(在位893‐927)の時代に,ブルガリアはプレスラフPreslav(シュメン南東)に遷都し,ビザンティン帝国などとたびたび戦ってエーゲ海とアドリア海にまで領土を拡大し,フランク王国と肩を並べるヨーロッパの一大勢力を誇った。さらに913年,シメオンは〈ブルガリア皇帝(ツァールCar)〉の称号を認められた。…

※「シメオン1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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