ザールラント(英語表記)Saarland

翻訳|Saarland

精選版 日本国語大辞典 「ザールラント」の意味・読み・例文・類語

ザールラント

(Saarland) ドイツ連邦共和国西部の州。モーゼル川支流のザール川流域を占め、フランスおよびルクセンブルクと国境を接する。良質な石炭を豊富に埋蔵するザール炭田があり、フランスのロレーヌ地方の鉄鉱石を用いて重工業地帯を形成。一八世紀以来、フランス、ドイツ両国の係争地となり、第二次世界大戦後フランスの管理下に置かれたが、一九五七年西ドイツに返還。州都ザールブリュッケンザール地方

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改訂新版 世界大百科事典 「ザールラント」の意味・わかりやすい解説

ザールラント
Saarland

ドイツ西端の州。州都はザールブリュッケン。面積2567km2。人口は105万6000(2004)。ザールSaar地方とも呼ばれる。

ザール川,ナーエNahe川山地の一部に属し,ライン粘板岩山地とロートリンゲンの地層段丘との間に位置し,多様な地形をもつ。中心地域はプリムスPrims川とブリースBlies川の間の丘陵地であり,ノインキルヘン,ザンクト・イングベルト,ザールブリュッケンの線の北西部は石炭層,南東部は雑色砂岩層からなり,フェルクリンゲンから北へ湾曲してノインキルヘンに至る線が最高部を形成し,森林地となっている。

中世には州域の大部分はザールブリュッケン伯領であったが,1789年にフランス領となった。ついで1815年のパリ条約で南東部がバイエルンに,北部がプロイセンに割譲されたが,71年のドイツ帝国の形成によりドイツ領となった。しかし,この州に豊富な石炭が埋蔵されているため,第1次大戦から1956年までドイツとフランスの間でその帰属と経済的利用をめぐって争いが続いた。いわゆるザール問題である。

 1919年のパリ講和会議においてクレマンソーは以前のプロイセン領ラインラントの一部とバイエルン領ライン・ファルツの一部とからなるザール地方をフランスに併合することを主張したが,イギリスとアメリカの反対にあい,ベルサイユ条約45~50条によって20年以降15年間国際連盟の任命する小委員会の委任統治のもとにおかれることになった。その後29-30年にフランスへの併合とドイツへの復帰の試みが戦わされたがいずれも成功せず,35年の住民投票により90%の賛成でもってドイツに復帰した。

 第2次大戦後フランスはザールラントの政治的併合に対するアメリカとイギリスの同意を得ることはできなかったが,その政治的自立とフランスへの経済的統合に対する承認を得た。そして1946年1月2日にザール炭坑をフランスの管理下におき,フランスとの政治的併合に賛成するグループを優遇した。47年12月15日発効の憲法に基づき,首相に親仏派のホフマンJohannes Hoffmannが就任し,48年4月1日にはフランスとの関税同盟が成立した。しかし,50年3月5日のザール協定によりフランスが政治的軍事的一体性をもつザールの自治を認める代償として50年間のザール炭坑の租借の約束を得たため,西ドイツがこれに抗議してザールラントの自治権を主張し,抗議の気運は52年4月23日の連邦議会決議において頂点に達した。またザールラント内部においても,1950年5月9日にフランスのR.シューマンがヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立を提案したさい,ザールをフランスが代表すると述べたことへの反発がこれに加わり,反仏の組織化が進んだ。53年5月20日のザール協定修正によりわずかの緊張緩和がもたらされ,54年10月23日のアデナウアーとマンデス・フランスのパリ会談への道を開いた。この会談で西ヨーロッパ連合の枠内でザールラントの〈ヨーロッパ化〉をはかるザール規約Saarstatutが結ばれたが,これに対して親仏派と親独派との対立が激化し,55年10月23日の住民投票で投票者の68%がザール規約に反対したためホフマン内閣は退陣した。12月18日の州議会選挙で親独派が勝利し,56年10月27日の西ドイツとフランスのザール契約Saarvertragにより,57年1月1日以降西ドイツに併合され,今日に至っている。

石炭鉱業がとくに重要で,この石炭とロレーヌのミネット鉱を原料とする鉄鋼業はフェルクリンゲン,ザールブリュッケン,ノインキルヘンに集中し,製品はドイツ国内やフランスに販売されている。その他伝統産業としてガラスと製陶工業も盛んで北西部農村ではブドウ栽培が行われている。さらに近年金属加工業や電気機械工業,化学工業も新たな発展を示している。
ザール炭田
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザールラント」の意味・わかりやすい解説

ザールラント
ざーるらんと
Saarland

ドイツ南西端にある連邦州の一つ。州都はザールブリュッケン。州域はザール川およびその支流の流域にあり、南はフランスに、西はルクセンブルクに、北から東にかけてはラインラント・プファルツ州に接する。フランス語名サールSarre。面積2569平方キロメートル、人口106万8700(2000)。北部はフンスリュックHunsrück山地の一部をなす結晶片岩や珪岩(けいがん)の山地(最高地点は595メートル)で、広く森林に覆われている。そのほかは比較的開析の進んだ丘陵地帯で、森林、牧草地、耕地が混在する。気候は西岸海洋性で、年間800ミリメートルほどの降水は周年的であり、年平均気温は8~9℃である。ザールブリュッケンの北から東にかけては森林が広く残り、ほぼこれに沿って炭田が分布する。

 19世紀後半から炭田の開発と製鉄業が活発になり、この地方は貧しい農業地帯から近代工業地帯へと変化した。製鉄、鉄鋼、機械などの工業は、州西部のディリンゲンDillingen an der Saarから南部のザールブリュッケンを経て東部のノインキルヘンNeunkirchen(人口5万0900。2000)に至る地帯に集中する。かつては石炭産業が活発で炭鉱労働者が多かったが、1960年代のエネルギー革命以降、産業構造の改変が進み、第三次産業就業者の比率が高まった。農業は、フランス国境に近い部分では肥沃(ひよく)な土壌があり、やや活発であるが、その他の地域では経営規模が10ヘクタール以下の農家が多いこともあって、あまり振るわない。穀物栽培と、肉牛・乳牛の飼養が一般的に行われている。

[朝野洋一]

歴史

ザールラントの名称は、1918年までは行政上も、政治的にも、歴史的にも存在しない。帝国騎士の小所領からなるこの地域は、17世紀の三十年戦争以後フランスの影響を受け、ルイ14世に一時占領された(1680~97)。フランス革命期にはライン左岸地域とともにフランスに併合されたが、ナポレオン敗北後のパリ条約(1815)で、その大部分がプロイセンに、南東部がバイエルンに編入された。プロイセン・オーストリア戦争の際、ナポレオン3世はここをうかがうが、その関心は石炭など重要資源にあった。第一次世界大戦後フランスはここを併合しようとするが失敗し、ベルサイユ条約で国際連盟監督下の自治地域となり、1935年住民投票の結果ドイツに復帰した。第二次世界大戦後フランスはここをドイツから分離し経済的に統合しようとするが、1954年のザール地位協定が翌年の住民投票で否決されると断念し、56年10月ザール条約を結び、ザールラントはドイツ連邦共和国に編入された。

[吉田輝夫]

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百科事典マイペディア 「ザールラント」の意味・わかりやすい解説

ザールラント

ザールSaarとも。ドイツ南西部の州。フランスのロレーヌ地方,ルクセンブルクに隣接。美しい森におおわれた丘陵地で,豊富な炭田を基盤に製鉄,機械などの重工業が発達。住民の約90%がドイツ人でカトリックが多い。豊かな石炭資源と鉄鋼業のため,18世紀末から独仏係争の地であった(ザール問題)。州都ザールブリュッケン。2569km2。99万718人(2013)。
→関連項目炭田ラインラント

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