ザント,K.L.(読み)ざんと

世界大百科事典(旧版)内のザント,K.L.の言及

【ウィーン体制】より

…この運動は革命的性格を持つものではなかったけれども,ドイツ連邦はそれに対して権力的に対応した。19年3月23日学生カール・ザントが文筆家コツェブーをロシアのスパイとして殺害した事件を契機に,同年8月〈ドイツ革命〉を鎮圧するためのドイツ連邦閣僚会議が開かれ,〈カールスバート決議〉が行われる。これによって,連邦諸国の国内情勢が不穏となり,しかもその国が連邦決議を遂行する力を持たない場合には,連邦軍を派遣する権利が連邦議会に与えられ,さらに出版物の事前検閲,大学・教師・学生に対する管理が強化されることとなった。…

【コツェブー】より

…1808‐13年には逃亡先ロシアで反ナポレオンの論陣を張った。17年に帰国の後,ツァーリの私的通信員としてドイツ情勢をロシア政府に報告するかたわら,雑誌《文学週報》でブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を揶揄(やゆ)し,彼をロシアのスパイでブルシェンシャフトの敵と思いこんだ狂信的学生ザントKarl Ludwig Sand(1795‐1820)により暗殺された。《ドイツ小都会人》(1803)など200編をこえる戯曲のほか,小説や旅行記を残す。…

【ブルシェンシャフト】より

…しかし参会者の一部が興奮のあまり,当時反動的,非ドイツ的と目されていた諸人物の著書を焚書に付すという事態に及んで,ドイツ連邦諸政府の疑惑を招くところとなった。翌18年10月のイェーナにおける代表者会議で,〈全ドイツ・ブルシェンシャフト連合〉が結成されるが,19年3月23日ギーセンの〈絶対派〉の一員ザントKarl Sand(1795‐1820)がロシアのスパイとの風評のあった反動的劇作家コツェブーを暗殺したことを口実として,それまでブルシェンシャフト弾圧の機会をうかがっていたメッテルニヒは,同年8月カールスバート決議をもってブルシェンシャフト間の連絡を禁止し,大学に対する監督の強化を指令した。20年代以降ブルシェンシャフトは秘密結社の形をとり,またさまざまに装いを変えながら,48年革命まで存続することになる。…

※「ザント,K.L.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」