ザンジバル(英語表記)Zanzibar

デジタル大辞泉 「ザンジバル」の意味・読み・例文・類語

ザンジバル(Zanzibar)

アフリカ東部、タンザニアの一地域。ザンジバル島ペンバ島を主島とするザンジバル諸島から成り、1963年に英国から独立。翌1964年タンガニーカと連合し、タンザニアを形成。丁子ちょうじの世界的産地。
ザンジバルシティー

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ザンジバル」の意味・読み・例文・類語

ザンジバル

(Zanzibar)
[一] アフリカの東岸、タンザニアの島。丁子香・コプラの世界的産地。
[二] ザンジバル島西岸の港湾都市。ザンジバル州の州都。かつて(三)の首都。
[三] 一八六一~一九六四年、東アフリカにあった王国。ザンジバル島とペンバ島からなり、長い間イギリスの保護領であったが、一九六三年独立し、革命によりザンジバル共和国となり、翌年タンガニーカと合併してタンザニア連合共和国を結成した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ザンジバル」の意味・わかりやすい解説

ザンジバル
Zanzibar

東アフリカ,タンザニア連合共和国を構成する地域。タンザニア北東部の沖合約35kmにあり,ザンジバル島(面積1660km2),ペンバ島(984km2)と30余の小島から成る。人口は98万(2002)。住民は,最も古く住みついたとされるバントゥー語系のハディーム,トゥンバトゥと,アラブ,インド人,さまざまの程度のアラブやペルシア人とアフリカ人との混血民,それにアフリカ本土からの多種の出身のアフリカ人から成る。ザンジバルの最大の都市ザンジバル市(人口約16万)は,ザンジバル島の西端にあり,古いアラブの伝統を残した街並みをみせている。ザンジバルの名は,アラビア語の〈ザンジュ〉(黒人の意)から来たもので,かつてアラブは東アフリカ沿岸部をザンジュの国と呼びならわしていた。

 ザンジバルは,1~2世紀にアレクサンドリアで書かれた《エリュトラ海案内記》で,メヌティアス島と呼ばれていたのがそれに当たるとみなされている。当時のザンジバルは,森林がよく茂り,野生動物や水産資源が豊富であったという。インド洋交易の一つの拠点として発展したザンジバルは,11世紀にはすでにイスラム化した住民が住む交易都市としての機能を果たしていた。13世紀のアラブの地理学者ヤークートも,この町について記録している。13~15世紀,東アフリカ沿岸部では南のキルワ島が,ソファラ積出しの金を独占して隆盛をきわめ,ザンジバルもその支配下にあった。16世紀に入ってポルトガルが東アフリカに進出してきたが,17世紀後半になると,しだいにポルトガル勢力は南へ追い払われた。オマーンからモンバサに派遣された太守ムハンマド・アルマズルイは,この勢いをかって18世紀半ばには沿岸部のかなり広い地域を支配下に収めた。19世紀に入って,マスカット・オマーンの領主(イマーム)であるサイイド・サイードが,何度かザンジバルに遠征し,マズルイの勢力を破って1828年,ザンジバルを首都に,モガディシュからデルガド岬に至る沿岸部をおさえる国をつくりあげた。英明なサイードはザンジバルにチョウジプランテーションを開き,30年代後半には世界の産額の80%を占めるまでになった。また,従来の沿岸部での交易,つまりアフリカ大陸内陸の人々が運んでくる商品に頼っていた交易をやめて,アラブ自身がキャラバンを組んで内陸へ進出するようになった。その主要ルートは,沿岸のバガモヨから,タンガニーカ湖畔のウジジを経て,コンゴ森林部に至るもので,その主要商品は,象牙とチョウジ・プランテーションのための奴隷であった。捕らえられた奴隷は象牙を肩に沿岸まで運び,そこで売られた。ティップ・ティプはそのようなアラブの奴隷商人として有名である。ザンジバルのイマームは,サイードの死後,イギリスによって傀儡(かいらい)化し,90年,沿岸の領土権をイギリス,ドイツに譲渡した。ザンジバルのイマームは形式的には1963年12月の独立まで残存したが,64年1月の反アラブのアフロ・シラジ党による民主革命により廃された。同年4月にタンガニーカ共和国と合邦し,12月には新しいタンザニア連合共和国となった。そして,大統領は旧タンガニーカから,副大統領は旧ザンジバルから選出されることになった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザンジバル」の意味・わかりやすい解説

ザンジバル
ざんじばる
Zanzibar

東アフリカ、タンザニア沖のインド洋上にあるザンジバル島、ペンバ島などからなる地域。アフリカ大陸のタンガニーカとともにタンザニア連合共和国を構成する。ザンジバルとはペルシア語で「黒人の海岸」を意味する。面積2460平方キロメートル、人口98万7400(2001推計)。中心都市はザンジバル島のザンジバル市(人口24万7500、2001推計)。主島のザンジバル島は第三紀層のシルト岩、泥岩を基盤に第四紀の礁石灰岩がのり、数段の海成段丘が発達する隆起サンゴ礁の島で、南北87キロメートル、東西40キロメートル、面積は1660平方キロメートルある。年平均気温27℃で、2月が暑く、7~9月は涼しい。年降水量は1421ミリメートルで、3~5月が大雨期、11~12月が小雨期となる。12月から3月にかけて北東の、6月から10月にかけて南西の季節風が吹き、ペルシア湾沿岸地域とのダウ(アラブ式帆船)の航行を助ける。

[堀 信行・青木澄夫]

歴史・政治

ザンジバル市は古くからインド洋交易の商業都市として栄え、とくに奴隷と象牙(ぞうげ)の集散地として知られた。16世紀にポルトガル人が進出したが、島民とペルシア湾沿岸地域から移住してきたアラブ人によって撃退された。その後アラブ人の影響が強まり、1840年オマーンのスルタンであったセイド・サイードがザンジバルに都を移し、東アフリカ海岸地域の貿易を支配した。彼は隊商をアフリカ大陸の奥地へ送り、最盛期には年間10万人もの奴隷が売買されたといわれる。19世紀以後のヨーロッパ諸国のアフリカ進出に伴って、1890年ザンジバルはイギリスの保護領となり奴隷貿易も禁止された。1963年1月イギリスの自治州となり、同年12月スルタンを国王として独立したが、翌64年1月革命が起こり人民共和国を宣言、同年4月タンガニーカと連合してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国、さらに同年10月タンザニア連合共和国となった。連合共和国成立後も、独自の大統領、内閣をもち、軍事、外交、通貨以外は単一国家に近い広範な自治機能を保持している。ザンジバルの大統領は自動的にタンザニア連合共和国の副大統領を兼任する。またザンジバル独自の政党であるアフロ・シラジ党(ASP)を擁していたが、1977年にASPはタンガニーカ・アフリカ人同盟と合併し、タンザニア革命党(CCM)となった。

[堀 信行・青木澄夫]

産業・社会

かつて経済的繁栄を支えてきた奴隷貿易が禁止されてからは、ザンジバル港も大陸のモンバサやダルエス・サラームにとってかわられている。主要産物は香辛料のチョウジで、400万本の林を有し、生産量は世界の大半を占める。住民はアフリカ人、アラブ人、インド人が混在し、典型的な多人種社会を構成している。言語はスワヒリ語、宗教はイスラム教が主流をなす。中心都市のザンジバル市は、迷路のような路地の多いアラブ風の町で、家々の美しく彫刻された扉がかつての繁栄を物語っている。市内にはリビングストンをはじめ多くの探検家の住居跡もある。

[堀 信行・青木澄夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

旺文社世界史事典 三訂版 「ザンジバル」の解説

ザンジバル
Zanzibar

アフリカ東海岸の島の港市。現在はタンザニア連合共和国の構成国
【略史】名称はアラビア語の“ザンジュ(黒人)”に由来。10世紀にイスラーム商人が来航し,香辛料やアラブ社会への奴隷の産地・供給地としてインド洋交易で繁栄。15世紀末からポルトガルの勢力が伸張するが,17世紀半ばにアラビア半島オマーンのイスラーム王朝(ヤアーリバ朝)の船が来航してポルトガルの居留地を攻撃し,以後,ポルトガル勢力が衰退し始める。その後,オマーン本土で18世紀半ばにブー−サイード朝がおこると,東アフリカにおけるオマーンの進出が本格化した。サイイド=サイード(在位1806 (ごろ) 〜56)は,通商活動の利益から徐々に拠点をザンジバルに移し,1832年からここを首都に海洋帝国ザンジバル王国を建設し,東アフリカ東沿岸一帯を支配下に置いた。サイード死後,沿岸部領域は分割されてイギリス・イタリア・ドイツの支配下に入り,ザンジバル自体も1890年イギリスの保護国とされた。
【独立とその後】1961年自治政府が成立し,1963年アラブ系スルタンを王とする立憲君主国として独立。しかし,翌64年クーデタが起こり,アラブ系要人が国外に亡命して人民共和国となり,同年4月タンガニーカ共和国と合邦し,同年10月国名もタンザニア連合共和国と改称された。ザンジバルには自治政府があり,生活水準も大陸本土より高い。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザンジバル」の意味・わかりやすい解説

ザンジバル
Zanzibar

タンザニア北東部,ザンジバル島西岸にある港湾都市。ザンジバルペンバ地方行政庁所在地。旧ザンジバル人民共和国の首都。 10世紀頃から,アフリカ大陸内陸との交易基地として繁栄。特に奴隷の積出港として有名で,地名はアラビア語で「黒人奴隷の町」の意。 1832~56年ザンジバル王国の首都。現在はクローブ,コプラの集散地,輸出港。ポルトガル,アラブ (オマーン) ,イギリスなどに支配された島の歴史を反映して,アラブ風の狭く曲がりくねった道路,奴隷市場の跡,スルタンの王宮,オマーンの要塞,モスクのほか,探検家 D.リビングストンの家,聖公会の聖堂などが残る。 2000年ストーンタウンが世界遺産の文化遺産に登録。人口 15万 7634 (1988) 。

ザンジバル
Zanzibar

タンザニア北東部,インド洋上の島から成る地域。ザンジバル島ペンバ島および周辺の多数の島が含まれる。 1890年からイギリスの保護領であったが 1963年独立,64年1月ザンジバル人民共和国となり,同年4月タンガニーカ共和国と合邦し,タンガニーカ=ザンジバル連合共和国を形成,同年 10月タンザニア連合共和国となった。ザンジバルは連合政府に属してはいるが,自治政府ももっている。主産物はクローブとコプラで,クローブは世界生産額の 80%を占める。漁業も盛ん。中心地はザンジバル島のザンジバル。人口 64万 578 (1988) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ザンジバル」の解説

ザンジバル
Zanzibar

東アフリカ,タンザニアの島。アラビア語のザンジュ(黒人)が語源。古くからインド洋交易の重要拠点でイスラームを受容。1820年代にサイイド・サイードが東アフリカ沿岸一帯を勢力圏に収め,30年代以降ザンジバル島に本拠を置く(国名もザンジバル)。象牙交易やクローブ(丁子(ちょうじ))栽培で繁栄。61年オマーンから分離独立するも,90年イギリス保護領となる。1963年12月独立後,64年にアフリカ系住民を支持基盤とするアフロ・シラジ党によるザンジバル革命をへてタンガニーカと合邦し,タンザニアの一部となる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ザンジバル」の解説

ザンジバル

テレビアニメ「機動戦士ガンダム」に登場する宇宙戦艦。ジオン公国軍に所属するザンジバル級機動巡洋艦。全長255メートル。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のザンジバルの言及

【タンザニア】より

…正式名称=タンザニア連合共和国United Republic of Tanzania面積=94万5090km2人口(1996)=2883万人首都=ダル・エス・サラームDar es Salaam(日本との時差=-6時間)主要言語=スワヒリ語,バントゥー諸語,英語通貨=タンザニア・シリングTanzania Shillingアフリカ大陸の東部にあり,インド洋に面した連合共和国。以前タンガニーカTanganyikaと呼ばれた本土部と,ザンジバルZanzibarと呼ばれる島嶼部よりなる。1964年4月27日に両者の合邦が成立したのち,タンガニーカとザンジバルの両方の名を合わせ,タンザニア連合共和国と国名を改めた。…

【タンザニア】より

…正式名称=タンザニア連合共和国United Republic of Tanzania面積=94万5090km2人口(1996)=2883万人首都=ダル・エス・サラームDar es Salaam(日本との時差=-6時間)主要言語=スワヒリ語,バントゥー諸語,英語通貨=タンザニア・シリングTanzania Shillingアフリカ大陸の東部にあり,インド洋に面した連合共和国。以前タンガニーカTanganyikaと呼ばれた本土部と,ザンジバルZanzibarと呼ばれる島嶼部よりなる。1964年4月27日に両者の合邦が成立したのち,タンガニーカとザンジバルの両方の名を合わせ,タンザニア連合共和国と国名を改めた。…

※「ザンジバル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android