日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザマの戦い」の意味・わかりやすい解説
ザマの戦い
ざまのたたかい
第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)末期、カルタゴの本拠アフリカに侵攻した大スキピオ(アフリカヌス)指揮下のローマ軍(約2万9000)が、急遽(きゅうきょ)イタリア遠征から帰還したハンニバル指揮下のカルタゴ軍(約4万)を撃滅した戦い(前202)。その直後、カルタゴはローマに和を請い、翌紀元前201年春、講和条約が締結されて、前218年以来の第二次ポエニ戦争もついに終結した。ザマZamaの戦場といわれるものは、アルジェリアとの国境に近い現在のチュニジア西部の平原に位置したことは確かであるが、正確な場所に関しては複雑な論争があり、決着をみていない(「ザマ問題」)。すなわち、(1)この地方には古代に「ザマ」とよばれた場所が少なくとも二つあって、それぞれの位置に関して諸説があり、(2)この戦場の位置を「ザマ近郊」と記しているのは実は第二級史料にすぎず、主要史料では「マルガロン」Margaronあるいは「ナラッガラ」Naraggaraが戦場とされ、しかも「マルガロン」と「ナラッガラ」の異同、前者の位置も不明なのである。したがって「ザマの戦い」という呼称自体、不適当といわねばならない。
[栗田伸子]