サン・マリノ(読み)さんまりの(英語表記)San Marino

翻訳|San Marino

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・マリノ」の意味・わかりやすい解説

サン・マリノ
さんまりの
San Marino

イタリア半島北東部にある小さな共和国。正称サン・マリノ共和国Repubblica di San Marino。イタリアのエミリア・ロマーニャマルケ州境、標高739メートルのティターノ山とその周辺の丘陵地に広がる。面積60.57平方キロメートル、人口3万1000(2007推計)。首都は、城壁に囲まれた山頂の町サン・マリノ(人口4414、2005)。ほかにボルゴ・マッジョーレ、セッラバッレなどの町がある。住民はイタリア系。公用語はイタリア語。1943年以来、紙幣の発行を行っておらず、イタリアの通貨が自由に流通した。ただし、1972年から独自のコインを発行して、収集家たちの人気を集めた。1999年以降はヨーロッパ連合EU)の通貨ユーロが流通しているが、EUには加盟していない。1862年にイタリアとの間で関税同盟成立。現在、入国に際する税関の検査はない。また、イタリアとは1897年に友好条約を締結、1953年にこれが更新されている。1992年には国際連合と国際通貨基金(IMF)に加盟。

 5年ごとに選ばれる60名の議員によって構成される大評議会があり、立法権を行使する。女性に対する選挙権は1964年、被選挙権は1973年に認められた。大評議会は毎年2名の行政長官を選出し、それぞれが半年ずつ国家元首としての政務を遂行する。年間300万人前後といわれる観光客、移民からの送金、国際的に有名な郵便切手の発行、イタリアからの援助が、サン・マリノの経済を基本的に支えている。中世の名残(なごり)を漂わせた、眺望のよいサン・マリノの町には、大聖堂、ゴシック様式のサン・フランチェスコ教会、1894年に建てられた政庁、ロッカ・グアーイタ、ロッカ・デッラ・フラッタ、ロッカ・モンターレとよばれる三つの岩峰・城塞(じょうさい)などがある。領土内には鉄道はなく、24キロメートル離れたアドリア海に面するリミニとは定期バスで結ばれている。

[堺 憲一]

歴史

伝説に従えば、4世紀初めに古代ローマのディオクレティアヌス帝(在位284~305)によるキリスト教徒迫害から逃れるために、かつてアドリア海を挟む対岸の地ダルマチアに住んでいた石工マリノ(ラテン名マリヌス)が、ティターノ山に立てこもり、彼の信奉者たちとともに共同生活を始めたことが建国の始まりとされている。10世紀に外敵の侵略に備えて要塞化され、11世紀には自治都市となる。15世紀の中ごろ、60名のメンバー(貴族20、市民20、農村居住者20)で構成される大評議会の制度が発足した。1503年にチェーザレ・ボルジャによって短期間占領されたことがあるが、その地理的な条件を生かして、終始独立を守り続けた。1862年には新生のイタリア王国と友好関係を樹立。しかし、ファシズム時代にはファシストによって蹂躙(じゅうりん)され、第二次世界大戦末期には戦災による大きな被害を受けた。戦後社会党と共産党による左派勢力が大評議会の多数派を掌握、その状態は1957年まで続いた。一時右派勢力による臨時政府がリミニにつくられ、政治的危機の様相を呈したが、1959年にはキリスト教民主党による政府が発足。1978年から共産党主導の連立政権が実現するが、1986年には共産党とキリスト教民主党、さらに1992年にはキリスト教民主党と社会党の連立政権が樹立された。2000年以降、キリスト教民主党と社会党は連立を組んだり、分離したりして複雑に推移、2008年11月には、キリスト教民主党を中心とする中道右派の「サンマリノのための協定」連合の内閣が樹立された。なお、日本とは1996年に外交関係が成立、2002年には在日サンマリノ大使館が開設されている。

[堺 憲一]


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