サン・サーンス(読み)サンサーンス(英語表記)Camille Saint-Saëns

百科事典マイペディア 「サン・サーンス」の意味・わかりやすい解説

サン・サーンス

フランスの作曲家,ピアノ奏者,オルガン奏者。幼少のころから抜きん出た楽才を示し3歳で作曲を始める。生地のパリ音楽院に学んだのち,マドレーヌ教会オルガン奏者,音楽学校ピアノ教授などを務め,フォーレらを教えた。1871年には音楽教育家のR.ビュシーヌとともに国民音楽協会を創設し,フランス音楽の発展をめざす。きわめて多作で,ラテン語や古典文学に通じた豊かな教養を背景に上品,華麗な様式の作品を各ジャンルに残した。バイオリン管弦楽のための《序奏とロンド・カプリッチオーソ》(1863年),《ピアノ協奏曲第2番》(1868年),交響詩《死の舞踏》(1874年),オペラサムソンとデリラ》(1867年−1877年),《バイオリン協奏曲第3番》(1880年),組曲動物の謝肉祭》《交響曲第3番》(ともに1886年)などが広く知られ,室内楽曲にも名品が多い。→ショーソン
→関連項目交響詩サラサーテ死の舞踏デュパルクナットハバネラパブロワフォーキンプティ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・サーンス」の意味・わかりやすい解説

サン・サーンス
さんさーんす
Camille Saint-Saëns
(1835―1921)

フランスの作曲家、ピアノ奏者、オルガン奏者。パリに生まれる。10歳でピアノ奏者としてデビュー、神童ぶりを発揮、のちにパリ音楽院で、オルガンをブノア、作曲をアレビーに学んだ。18歳でパリのサン・メリー教会のオルガン奏者に就任、同年、交響曲第1番が初演されグノー賞賛を受けた。1857年マドレーヌ教会のオルガン奏者になり、この教会で彼の即興演奏を聴いたリストは「今日の最高のオルガン奏者」と激賞した。一方、サン・サーンスはしだいに作曲に力を注ぎ、67年にはカンタータ『プロメテの結婚』が万国博覧会記念コンクールに入賞するなど、作曲家としての地位を確立していった。また、当時のフランスに優れた器楽作品がほとんどないことを痛感し、若い作曲家に器楽や室内楽作品の発表の場を与えるため、71年ビュシーヌとともに国民音楽協会を設立、フランク、フォーレ、ラロらがこの協会に加わった。彼は86年まで同協会の指導的地位にあり、その間、自らも作品を発表した。晩年は作曲活動のかたわら、アメリカから東洋まで旅行をして回ったが、北アフリカのアルジェが気に入り、1921年12月パリの寒さを避けてふたたび訪れたこの地で86歳の生涯を閉じた。

 彼はあらゆるジャンルにわたって多くの作品を残したが、オペラ主流の当時のフランス音楽界の情況を映し、とくにオペラに力を注いだ。しかし今日『サムソンとデリラ』(1877初演)を除いてはあまり上演されていない。むしろ管弦楽曲、協奏曲に優れた作品が多く、オルガンを加えた交響曲第3番(1886)、5曲のピアノ協奏曲、3曲のバイオリンと管弦楽のための協奏曲、同じくバイオリンと管弦楽の『序奏とロンド・カプリチオーソ』(1863)、交響詩『死の舞踏』(1874)などは、いまも広く親しまれている。また当初は12の楽器のために書かれ、有名な「白鳥」を含む描写的な作品『動物の謝肉祭』(1886。のちに管弦楽用に編曲)は、彼の死後人気を博した。彼の作品は革新的であるよりは古典的な形式感や節度を重んじたものであるが、同時に繊細で優雅な表現、色彩的感覚に優れ、またとくに協奏的作品においては名技性を存分に取り入れてもいる。

[美山良夫]

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