サンクト・ペテルブルグ(読み)さんくとぺてるぶるぐ(英語表記)Санкт‐Петербург/Sankt-Peterburg

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サンクト・ペテルブルグ」の意味・わかりやすい解説

サンクト・ペテルブルグ
さんくとぺてるぶるぐ
Санкт‐Петербург/Sankt-Peterburg

英語ではセント・ピーターズバーグSt. Petersburgという。ロシア連邦北西部、レニングラード州の州都。首都モスクワとともに地方(クライ)、州と同等の連邦内行政主体でもある。モスクワに次ぐロシア第二の大都市。人口458万(2006年推計)。1712~1728年、1732~1918年にはロシアの首都であった。1914年までは現呼称のサンクト・ペテルブルグ(通称ペテルブルグ)、1914~1924年はペトログラードПетроград/Petrogradとよばれたが、ロシアの革命家レーニンにちなんでその死後の1924年、レニングラードЛенинград/Leningradに改称された。さらに、ソ連時代末期の1991年に、賛成54%の市民投票結果とそれを受けたロシア共和国最高会議幹部会令によって、旧称サンクト・ペテルブルグに戻された。バルト海に出口をもつフィンランド湾の奥、ネバ川の三角州に築かれた都市で、河口の低湿地に位置するためしばしば水害にみまわれる。とりわけ1777年、1824年、1924年は大洪水であった。第二次世界大戦後では1955年の水害が大きかった。沿海にあるため気候は海洋性で、1月、2月零下7.8℃、7月17.8℃と、緯度が高いわりに冬季の気温が高いが、1年を通じて曇天の日が多い。

[中村泰三・小俣利男]

人口

人口は、1764年18万、1897年126万5000と増加し、1920年にいったん減少するが、1939年には301万5000に増え、第二次世界大戦後は1959年の300万3000から1989年の446万へと増加した。しかし、1990年代には減少傾向を示している。1989~1996年の市人口の減少は22万1000、減少率5%であり、大都市圏でも中心市街地の人口減少が著しい。これは自然増加率の低さに起因している。たとえば、市を含む大都市圏の人口動態をみると、出生率は1000人当り7.0と低く、死亡率は15.9と高い。その結果、自然増加率はマイナス8.9と低い(1995)。一方、1991年以降続いた人口流出は1994年に流入に転じたが、1995年でも1000人当り1.3人にすぎない。人口密度は、市街が1897年の104平方キロメートルから1976年の606平方キロメートルにまで拡大したので、1897年に1平方キロメートル当り1万2163人であったが、1996年には6995人、2006年には3180人である。また、市内には多数の民族が居住するが、人口の大半がロシア人である。

[中村泰三・小俣利男]

ソ連崩壊後の市街

体制崩壊後、市役所がスモーリヌイの寄宿学校の建物に移されたり、長く閉鎖されていたスパス・ナ・クロビイ聖堂(キリスト復活寺院)が修復・公開されるようになった。同じく、キーロフ大通り、ジェルジンスキー通りがそれぞれカーメンナ・オストロフ大通り、ガロホバヤ通りへと変わったように、政治家などにちなんで改称された通りの名も旧名に戻されている。なお、サンクト・ペテルブルグ大都市圏を形成しているのは、中心都市サンクト・ペテルブルグとその周辺に分布するゼレノゴルスク、プーシキンコルピノクロンシュタットを含む25都市・集落である。市民の1人当り、貨幣所得は全国平均の112%、失業者2.1%(1995)である。

[中村泰三・小俣利男]

産業・交通

1990年代に入って商業・飲食部門の就業者が増加して全体の14.8%となり、工業就業者は25.4%に減少したが、依然として首位にとどまっている(1995、大都市圏の値)。しかも、サンクト・ペテルブルグの工業はロシアの工業総生産の2.5%を占め、「キーロフ工場」「スベトラーナ」「LOMO」「イジョルスキー工場」などの著名な工業企業が集中している。主要な業種は機械工業である。製品は原子力発電設備、タービントラクター、造船、オートメーション設備、工作機械、各種工業設備などで、製品の一部は輸出されている。ほかに木材加工、製紙、軽工業、食品工業がある。なお、工業のなかでは軍需工業の比率が高く改革を難しくしている。商・工業部門以外で従業者の多いのは教育・文化・芸術・科学・建設の2部門が、それぞれ全体の10%を上回っている(1995、同上)。また海港と河港の2港湾をもつ港湾都市であり、年間取扱い貨物量1100万トン(1992)である。海港はロシア有数の規模で、輸出入品の搬出入でにぎわい、多数の船舶が出入りしている。11月末から4月中ごろまでは砕氷船を使用する。河港はネバ川にあり、フィンランド湾とオネガ湖ラドガ湖を結ぶ水運の要地で、水中翼船も多用されている。陸上交通では市内にある五つの鉄道駅が各地と結ぶ発着点となる。近郊および遠距離を結ぶバス路線も発達している。空路はプルコボ国際空港を中心に、多数の国内線、国際線で各地と直結している。市内のおもな交通は地下鉄、バス、トロリーバス、市電で、バス、トロリーバスによる乗客輸送が大きな比重を占めている。地下鉄の発達が著しく、54駅を数え、路線総延長は100キロメートル(1995)に達した。

[中村泰三・小俣利男]

緑地・住宅

市域の5分の1が緑地で、そのうち公園、遊歩道が4200ヘクタールを占めている。大きな緑地は市域の縁辺にあり、北西部のユルトロフスキー夏期別荘地がもっとも大きい。また、市域外を森林公園が取り巻き、都市圏の緑化に力が注がれている。1970~1980年に約60万戸の住宅が建設されたが、その大部分は1960年以降の拡大された市域に建設された大規模高層団地に集中していた。

[中村泰三・小俣利男]

学術・文化

サンクト・ペテルブルグ大学(旧レニングラード大学)、工科大学をはじめとして40以上の高等教育機関があり、多数の学生や研究部門で働く人々がみられる。美術館・博物館とその分館は約120あり、エルミタージュ美術館ロシア美術館など著名なものが多い。劇場も20あり、マリンスキー劇場(正式名称アカデミー・オペラ・バレエ劇場)、ボリショイ・ドラマ劇場、プーシキン劇場アレクサンドリンスキー劇場)などが知られている。ピョートル大帝(ピョートル1世)により計画的につくられた町なので、多くの川や運河に380の橋が架かり、都心から放射状、同心円状に走る道路に沿って並ぶ高さの統一された建物などにより、世界でもっとも美しい町の一つといわれ、毎年多数の観光客が訪れる名所になっている。1990年にユネスコ世界遺産に登録された。冬宮(1754~62。エルミタージュ美術館の中心的な建物)、ペトロパブロフスク寺院(1712~33)を中心とするペトルパブロフスク要塞(ようさい)、聖イサク寺院(1819~58)、ネバ川沿いの一角スモーリヌイ(1748~64)、カザン寺院(1801~11)などの建築記念物が多い。

[中村泰三・小俣利男]

歴史

ピョートル大帝は北方戦争の最中の1703年、バルト海に注ぐネバ川の河口に新しい首都の建設を決意した。ロシアの西の端にあって気候も悪いこの寒村を首都にしようと思ったのは、この海への出口をもって「ヨーロッパへの窓」とし、西ヨーロッパの優れた文物を取り入れてロシアを近代化しようと考えたからだった。そのため大帝は、毎年4万に上る農民を強制的に新首都の建設のために働かせ、多くの犠牲者が出た。ピョートル大帝はまた貴族や商人、手工業者も強制的にこの地に移し、1712年自分の守護聖人の名にちなんでサンクト・ペテルブルグと命名し、首都をモスクワからここに移した。その後ラストレッリなどイタリアの建築家の協力も得て、壮大な宮殿、寺院、役所、劇場、それに大通り、公園、運河などが次々に建設され、ペテルブルグはロシアでもっとも近代的な美しい町になった。

 1715年に航海学校、1719年に工業学校とロシア最初の博物館(クンストカーメラ)が建てられ、1725年には全ロシア帝国の学問の中心として科学アカデミーが設立された。その後1757年に芸術アカデミーが、1862年に音楽院がつくられ、ペテルブルグはロシアの文化的中心となった。

 1837年にはペテルブルグとツァールスコエ・セロー(現プーシキン市)との間にロシアで最初の鉄道が建設され、1851年にはペテルブルグ―モスクワ間にも開通した。1835年から町にガス灯がともり、1847年からは乗合馬車が走るようになった。1905年~1907年には市電と乗合バスの路線も建設された。

 政治と文化の中心であったこの町は、ロシアの革命運動の舞台でもあった。1825年デカブリストが元老院広場で武装蜂起(ほうき)を試み、1881年にはアレクサンドル2世がナロードニキのテロリストによって暗殺された。19世紀の末から20世紀の初めにかけて、産業が発達し労働者が急増したが、彼らの労働条件は劣悪でストライキが頻発した。1905年1月「血の日曜日」事件が起こり、冬宮前広場の雪が血に染まった。第一次世界大戦が起こると、1914年8月、ドイツ風の町の名がロシア風にペトログラードと改められた。1917年の十月革命においては、ボリシェビキが赤衛軍やペトログラード守備隊、バルト艦隊の兵士と協力して臨時政府を倒し、レーニンを首班とする新政権を樹立した。しかし反革命軍の攻勢が強まったところから、1918年3月に首都はモスクワに移された。1924年1月レーニンが没すると、その5日後の第2回全連邦ソビエト大会において、市の名をレニングラード(「レーニンの町」の意)と改めることが決議された。

 第二次世界大戦が始まるや、1941年9月から1944年1月までの872日間、レニングラードはドイツ軍によって包囲され、63万人以上の餓死者が出た。しかし約20万人の市民が義勇軍に志願し、全市民が市の防衛にあたった。レニングラードは全ソ連の人々にとって勇気と自己犠牲のシンボルとなり、1942年12月ソ連最高会議幹部会は市に「レニングラード防衛メダル」を与えるとともに、英雄都市の称号を授与した。1944年1月に最終的に包囲網が解かれ、翌年防衛戦を勝ち抜いたレニングラードにはレーニン勲章が授けられた。第二次世界大戦後の1957年6月21日、開市250周年の祝典が挙行され、市は再度レーニン勲章を授与された。1991年のソ連崩壊後、ふたたび旧称のサンクト・ペテルブルグに改称された。

[外川継男]


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