サラミスの海戦
さらみすのかいせん
紀元前480年9月に行われた、ペルシア戦争第2回遠征中の海戦。クセルクセス1世麾下(きか)の大軍はテルモピレーの天険を突破し、アテネを焼き払ったのち、イストモス(地峡)とその近くのサラミスSalamís湾岸の最後の防衛線にギリシア軍を追い詰めた。海戦の作戦指導者、アテネのテミストクレスの策略によって、ギリシア連合艦隊は、兵力装備ともに優位にたつペルシア海軍を狭い水道内に誘い込み、小さいが機動力のあるギリシア軍船が攻撃を加え、大敗させた。これを近くの海岸で観戦していたペルシア王は、軍隊の一部を連れてアジアへ撤退。この海戦が戦争の帰趨(きすう)を決し、ギリシアにおけるアテネ海軍の地位を不動のものとした。
[豊田和二]
『馬場恵二著『サラミスの海戦』(『世界のドキュメント1』所収・1968・人物往来社)』▽『R. B. NelsonThe Battle of Salamis(1975, William Luscombe, London)』▽『C. HignettXerxes' Invasion of Greece (1963, Oxford University Press, Oxford)』
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サラミスの海戦
サラミスのかいせん
Battle of Salamis
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サラミスの海戦
サラミスのかいせん
Salamis
ペルシア戦争中の前480年に行われた,アケメネス朝とギリシアとの海戦
クセルクセス1世のアケメネス朝陸軍がアテネを焼いたのち,テミストクレスらのギリシア連合艦隊が,フェニキアの艦隊を主力とするアケメネス朝海軍を狭いサラミス水道にひき入れて撃滅。このため,クセルクセスは本国に逃げ帰った。サラミスはアッティカ西岸の小島。
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「サラミスの海戦」の意味・わかりやすい解説
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サラミス の 海戦(かいせん)
ペルシア戦争中の海戦。前四八〇年九月末、テミストクレスの指揮するギリシア艦隊が、ギリシア本土とサラミス島の間のサラミス水道で、ペルシア艦隊を撃破。
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サラミスのかいせん【サラミスの海戦】
第2次ペルシア戦争における前480年の歴史的海戦。テルモピュライの玉砕(テルモピュライの戦)によって第1次防衛線が崩壊すると,アルテミシオンに出動していたギリシア連合船隊はサロニカ湾奥のサラミスSalamis島に退き,サラミス水道内の海域に集結して待機を続けた。ペルシア地上軍はアテナイの国土を無血占領し,アクロポリスも難なく陥落させて,マラトンの戦ののち建築中であった〈古パルテノン〉その他の神殿に火をかけ,聖財を略奪破壊した。
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世界大百科事典内のサラミスの海戦の言及
【海軍】より
…まずフェニキア海軍が前1400年から前500年ころまで地中海を支配し,次いでギリシア海軍が前300年ころまで制圧した。古代海戦の代表的な一例はサラミスの海戦(前480)である。対戦したペルシア,ギリシア両海軍とも主力は三段櫂座(かいざ)の軍船(120~200人乗り,80~90トン)で,陸兵が乗り込んで弓,槍,盾を使った敵船への斬込みや衝角による破壊が行われた。…
【テミストクレス】より
…前493年に首席アルコンの要職に選ばれ,ペルシアの来襲を見通し,ラウリオン銀山の収益を市民に分けるのを控えさせ,それを三段橈(かい)船の建造費に回した。こうして前480年にペルシア王クセルクセス1世が攻めこんできたときに,テミストクレスはストラテゴス(将軍)として艦隊を指揮し,ペルシア軍をサラミスの海戦で破った。 その後,彼は戦火に崩れたアテナイ市の立直しを図り,城壁を築き,さらにペイライエウス(ピレウス)港の建設を始めた。…
【ペルシア戦争】より
…テルモピュライの玉砕(テルモピュライの戦)で第1次防衛線は崩壊し,連合軍海上部隊はサラミスに集結して待機し,アクロポリスをはじめアッティカの土地がペルシア軍により荒廃に帰されるのを傍観した。しかし,テミストクレスの計略にかかってペルシア船隊がサラミス水道に侵入し,この歴史的海戦(サラミスの海戦)でペルシア船隊は敗退した。フェニキア船隊が完全に戦意を失い,クセルクセスはアジアに敗走した。…
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