サラディン(読み)さらでぃん(英語表記)Saladin

精選版 日本国語大辞典 「サラディン」の意味・読み・例文・類語

サラディン

(Saladin サラーフ=アッディーンのラテン名) 中世イスラム世界の武将。クルド人。西アジアのアイユーブ朝始祖(在位一一六九‐九三)。シリアエジプトイラク北部を経略十字軍を破りエルサレムを回復、第三次十字軍と和を結び、ダマスカスで没。ヨーロッパ文芸の題材ともなった。(一一三八‐九三

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デジタル大辞泉 「サラディン」の意味・読み・例文・類語

サラディン(Saladin)

[1138~1193]エジプトのアイユーブ朝創始者クルド族出身。在位1169~1193。十字軍との戦いでエルサレム奪回。英明寛容な君主としてヨーロッパでもたたえられた。サラーフ=アッディーンのラテン語名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サラディン」の意味・わかりやすい解説

サラディン
Salahdin

[生]1137/1138. ティクリート
[没]1193.3.4. ダマスカス
エジプトのアイユーブ朝の創建者。対十字軍戦争の英雄。アラビア語ではサラーフ・ウッディーン Salā al-Dīn (「信教の誉れ」の意) 。ヨーロッパではサラディンの名で知られている。 1164年シリアのザンギー朝の君主ヌール・ウッディーンの命を受けてエジプトに行き,ファーティマ朝の支配領域にスンニー派の拠点を築き,1167年叔父のシルクーフとともにエルサレム王アマルリックの軍勢を破った。 1169年カリフ,アーディドの宰相に就任して実権掌握,1171年ファーティマ朝を廃絶し,アイユーブ朝を創設。国家の宗派をシーア派からスンニー派に復活し,イクター制 (軍事的封建制) を施行して土地制度と軍隊制度の改革を推し進めた。 1174年ダマスカスに入城してエジプトと内陸部シリアを合併し,1187年にはハッティーンの戦いにフランク軍を破って 88年ぶりにエルサレムをイスラム教徒の手に奪回した (→エルサレム史 ) 。次いでアッコン (アコー) をめぐって第3次十字軍と激しい攻防を繰り返したのち,1192年獅子心王リチャード1世と3年間の平和条約を結んだが,翌 1193年3月マラリアのため没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サラディン」の意味・わかりやすい解説

サラディン
さらでぃん
Saladin
(1138―1193)

クルド人軍人でアイユーブ朝の創始者。「サラディン」はヨーロッパ人の呼び方で、正しくはサラーフ・アッディーン・ユースフ・ブン・アイユーブSalā al-Dīn Yūsuf b. Ayyubという。ザンギー朝に仕える軍人を父としてイラクに生まれる。ザンギー朝のヌール・アッディーンに仕え、1169年にエジプトに派遣され、ファーティマ朝の宰相となり実権を握り、アイユーブ朝を創建。71年にカリフ・アーディドが死んだのちは、名実ともにエジプトの支配者となった。74年のヌール・アッディーンの死後はシリア地方に進出し、再統一に努めた。シリアのムスリム勢力を統一したのちに、十字軍との対決に向かい、87年にパレスチナ北東部のヒッティーンで十字軍の主力を打ち破り、約90年ぶりにエルサレムを解放した。その後、十字軍勢力をレバノン、パレスチナの海岸部に押し戻した。これに対抗して第3回十字軍が組織されたが、サラディンはこれをよく防ぎ、これ以後、十字軍とムスリム勢力の力関係は逆転し、十字軍は地中海岸沿いの地域を守る立場に追い込まれた。

 サラディンは基本的にはヌール・アッディーンの政策を受け継ぎ、エジプト、シリアにまたがる地域の政治的統一、十字軍に対するジハード(聖戦)の遂行、スンニー派イスラムの確立を目ざした。武将としてのサラディンは、ムスリムにも十字軍にも武人の鑑(かがみ)として尊敬され、双方の文学の題材ともなっている。

[湯川 武]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「サラディン」の解説

サラディン
Ṣalāḥ al-Dīn[アラビア],Saladin[英]

1138~93(在位1169~93)

サラーフ・アッディーンともいう。イスラーム世界の政治家,武人。クルド出身。初めアレッポのザンギー朝,のちにエジプトのファーティマ朝に仕えて権力を握り,アイユーブ朝を興した(1171年)。シリアやイラク北部を経略し,イスラーム勢力を結集して十字軍を破り,イェルサレムを回復(87年)。第3回十字軍とアッカ港を争い,和議を結び(92年),翌年ダマスクスで没した。イスラームのヒューマニズムの具現者と称えられている。

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改訂新版 世界大百科事典 「サラディン」の意味・わかりやすい解説

サラディン
Saladin

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世界大百科事典(旧版)内のサラディンの言及

【エジプト】より

…街区ごとに宗派別の住み分けが行われるようになるのは,キリスト教徒十字軍のエジプト侵攻とスンナ派復活の影響が現れる12世紀半ば以降のことである。 ファーティマ朝の宰相となって実権を掌握したサラーフ・アッディーン(サラディン)はアイユーブ朝(1169‐1250)を創始し,国家の宗旨をシーア派からスンナ派に変更するとともに,それまでセルジューク朝やザンギー朝で実施されていたイクター制をエジプトに導入し,これを軍隊編制と農村支配のための基本制度に定めた。ナイル川流域のエジプトは政府による統治が容易であったから,水利機構の管理・維持は比較的よく行われ,その結果,農業生産は安定し,商品作物であるサトウキビも下エジプトから上エジプトへとしだいに拡大していった。…

【サラーフ・アッディーン】より

…翌年,ダマスクスで没。武人として優れた才能を発揮したばかりでなく,イスラムの慣行に基づいて異教徒を公正に扱い,その博愛主義のゆえにヨーロッパの文芸作品にもサラディンSaladinの名でしばしば登場する(レッシングの《賢者ナータン》やW.スコットの《タリズマン》など)。財政難に苦しみながらも,カイロにモスクやマドラサを盛んに建設して,イスラム諸学の振興に努めた。…

【シリア】より

…これは当時ファーティマ朝が弱体化しており,一方では北部から中部シリアにかけてセルジューク・トルコの流れをくむトルコ系諸勢力が乱立していたため,シリア全土が政治的には一種の真空状態にあったためである。イスラム側の勢力を統一して十字軍に対抗するにはかなり時間がかかったが,ザンギー朝(1127‐1222)のヌール・アッディーンによってかなり推進されたこの事業を,サラーフ・アッディーン(サラディン)が完成させた。サラーフ・アッディーンはマムルーク(奴隷軍人)の力を結集し,その活動の結果,十字軍は地中海沿岸地方に押し込められた。…

※「サラディン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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