ゴーリキー(Maksim Gor'kiy)(読み)ごーりきー(英語表記)Максим Горький/Maksim Gor'kiy

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ゴーリキー(Maksim Gor'kiy)
ごーりきー
Максим Горький/Maksim Gor'kiy
(1868―1936)

ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。本名はアレクセイ・マクシーモビチ・ペーシコフАлексей Максимович Пешков/Aleksey Maksimovich Peshkov。3月28日、ボルガ川上流の町ニジニー・ノブゴロド(旧ゴーリキー市)で、家具職人マクシム・ペーシコフと染物工場主カシーリンの娘ワルワーラの間に生まれる。幼時(3歳4か月)に父を失い、祖父の家に寄食。母は再婚したが、10歳のとき死亡。11歳になって、靴屋に奉公にやられたのを皮切りに、請負師の徒弟、ボルガ川航行の汽船皿洗い沖仲仕、聖像画房の筆洗い、パン焼き職人、駅の警備員、倉庫番、弁護士の書生、新聞記者など、さまざまな職業を転々とするが、苦労しながら独学に励む。

 1884年、カザンでのパン焼き職人のころ、革命青年(ナロードニキ)サークルに接近するが、下層民の子、独学者とさげすまれ、孤独感からピストル自殺を図り、タタール人に助けられる。波瀾(はらん)に満ちた前半生の人生行路は、自伝三部作『幼年時代』(1913)、『人々の中で』(1918)、『私の大学』(1923)のなかに詳しい。

 1892年、国内を放浪し、カフカスチフリスに出て、鉄道工場に勤め、友人カリュジヌイの勧めで処女作『マカール・チュドラ』(1892)を書き、マクシム・ゴーリキーの筆名で『カフカス』紙に発表する。筆名は、父の名と「にがい、つらい」の意味の形容詞「ゴーリキー」からとった。1895年、作家コロレンコの世話でサマーラ新聞社に勤め、イエグジイル・フラミーダその他の筆名で、社会の不正をあばく時評『ついでながら』を書くかたわら、『チェルカッシ』(1895)、『イゼルギリ婆(ばあ)さん』(1895)、『鷹(たか)の歌』『あやまち』『汗とその息子』(ともに1895)などの短編を書き続けた。このころ、校正係エカチェリーナ・ボルジナと知り合い、1896年結婚。1898~1899年に、それまでに書きためた小説を『記録と短編』2巻にまとめて次々に刊行、一躍文名を高めた。1899年、ヤルタに病気療養中のチェーホフを訪ね、親交を結ぶ。翌1900年レフ・トルストイとも知り合う。このころのことは回想記『ア・ペ・チェーホフ』(1905)、『エリ・エヌ・トルストイ』(1919)に詳しい。

 1899年、成り上がりの船主で専横な父と、その父の属する階級とに抵抗する反逆児の子を描く長編『フォマー・ゴルジェーエフ』を発表。ついで翌1900年、3人のプチブル出身者の三様の生き方を示す『三人』を発表、それまでのロマンチックな作風から時代を見つめるリアリズムに移る。同年、出版社「ズナーニエ」(知識)社をおこす。1901年、革命の嵐(あらし)の接近を予告する散文詩『海燕(うみつばめ)の歌』を発表し、発禁となるが、人々の口から口へ広く流布された。同年、戯曲『小市民』を発表、俗物根性をたたく労働者を初めて主人公にして世の注目をひいた。1902年、ロシア帝国科学アカデミー名誉会員に選ばれたが、ニコライ2世にその革命志向を嫌われ、勅命で取り消された。コロレンコ、チェーホフはこれに抗議して名誉会員を辞任した。同年、社会の底辺に生きる社会秩序の犠牲者たちを描く戯曲『どん底』を発表、上演、大きな反響をよんだ。ついで戯曲『別荘の人々』(1904)、『太陽の子ら』(1905)、『野蛮人』(1905)を発表した。1905年1月22日、冬宮前で、官憲の発砲で請願のデモ隊が多数死傷した「血の日曜日」事件を目撃、専制打倒を叫び、逮捕・投獄されるが、世界的な抗議で釈放。翌1906年、ボリシェビキ党の資金集めと帝制政府の借款妨害のために渡米。内妻の女優アンドレーエワを同伴したため物議を醸す。滞米中、戯曲『敵』を書く。同年、イタリアのカプリに移り住む。ここでプロレタリア革命家の母子を描く『母』(1907)を発表。1907年、ロンドンでの社会民主労働党大会に出席、レーニンと知り合う。この時期にボグダーノフらの影響で宗教哲学的な「建神主義」(ボゴストロイーチェリストボ)を唱え、中編『ざんげ』(1908)を発表、レーニンの批判を受ける。

 1915年、雑誌『レトピシ』(年代記)に拠(よ)って反戦運動を呼びかける。1917年の革命に際しては都市と農村の対立を恐れ、人道上の立場から革命の暴走に抵抗、『新生活』紙で文化財擁護、民主戦線結成を訴え、党の行きすぎを批判し、そのため同誌は廃刊に追い込まれる。その後は階級的ヒューマニズムの色を鮮明にし、党と知識人を結ぶ掛け橋となって活動。1921年、肺結核療養のためイタリアのソレントに住み、19世紀末から革命まで3代にわたるブルジョア一家の歴史と織工一家の歴史を対置して描いた長編『アルタモーノフ家の事業』(1925)を発表。また、自己中心の知識人の自滅の生涯を40年間にわたって描く長編『クリム・サムギンの生涯』(1927~1936)を書き始める(未完)。1930年代には回想記『レーニン』、革命前のブルジョアの没落史を描く戯曲『エゴール・ブルィチョフとその他の人たち』(1932)、『ドスチガーエフとその他の人たち』(1933)、『ワッサ・ジェレズノーワ』(1935)を発表。1934年、ソ連作家同盟結成に尽力し、その第1回大会の議長を務める。1936年6月18日、モスクワ郊外ゴールキで死亡。

 日本では1901年(明治34)に『帝国文学』誌12号にその名と作品が初めて紹介され、翌1902年『秋の一夜』(馬場孤蝶(こちょう)訳)、1905年『カインとアルチョム』(二葉亭四迷(しめい)訳)、1906年『ふさぎの虫』(四迷訳)、1907年『二狂人』(四迷訳)が紹介され、その風変わりな出身と第一次革命期の活動も手伝って評判を高めた。『どん底』は、1910年昇曙夢(のぼりしょむ)訳によって出版されたが、同年小山内薫(おさないかおる)の訳で『夜の宿』と改題されて『三田文学』誌に掲載され、自由劇場によって有楽座で上演されて以来、日本の新劇の重要な演目の一つとなっている。1930年(昭和5)改造社から全集が出た。大正期から昭和初期にかけての日本のプロレタリア文学に与えた影響は大きい。

[佐藤清郎]

『『ゴーリキー選集』全15巻(青木文庫)』『湯浅芳子・横田瑞穂訳『筑摩世界文学大系 52 ゴーリキー』(1973・筑摩書房)』『上田進・横田瑞穂訳・編『ゴーリキー短篇集』(岩波文庫)』『湯浅芳子訳『追憶』(岩波文庫)』『松本忠司編・訳『ゴーリキイ文芸書簡』全2巻(1973・光和堂)』『松本忠司著『ゴーリキイ研究1 作家への道』(1968・理想社)』『佐藤清郎著『ゴーリキーの生涯』(1973・筑摩書房)』

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