百科事典マイペディア 「ゴロブニン」の意味・わかりやすい解説
ゴロブニン
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…翌99年東蝦夷地とともに千島を幕府直轄領とし,1800年高田屋嘉兵衛に命じて択捉島に漁場を開かせるとともに,同島に郷村制を実施してアイヌの同化策を進めた。 同地は21年(文政4)再度松前藩領となったが,この間,1807年(文化4)フボストフNikolai KhvostovやダビドフGavriil I.Davydovらの択捉島攻撃,11年千島海域の測量に来たゴロブニンの捕縛と翌年のリコルドPyotr I.Rikordによる高田屋嘉兵衛の連行など,千島を介して日本と交易関係を結ぼうとするロシアとの間にしばしば紛争が生じた。55年2月7日(安政1年12月21日)の日露和親条約によって両国の国境は,択捉・ウルップ両島間の水道に定められ,樺太・千島交換条約により千島全島が日本領となった。…
…古典主義の荘重さと軽妙な風刺の要素を結合させた独特の華麗なスタイルが確立するのは,《メシチェルスキー公の死をいたみて》(1779)や上述の《フェリーツァによせて》,《神》(1784),《イズマイル占領によせて》(1791),《高官》(1794)などの頌詩においてである。上記の最後の三つの作品は文化年間(1804‐18)に海軍士官ゴロブニンによって日本に紹介され,馬場佐十郎によって部分的にではあるが漢詩風に翻訳された。1790年代以後は抒情的な作品が多くなり,《アナクレオン風歌謡集》(1804)に収められた作品には,古代ギリシアの詩人への深い傾倒がみられる。…
…同様の学校は53年にイルクーツクにも設けられた。19世紀前半には,日本との通商関係を求めた航海者I.F.クルーゼンシテルンの《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809‐12),V.M.ゴロブニンの《日本幽囚記》(1816)などロシア側から見た日本研究書が現れた。さらに,日露和親条約(1855)の交渉のために日本を訪れた提督E.V.プチャーチンの秘書官を務めた作家I.A.ゴンチャロフの航海記《フリゲート艦パルラダ号》(1858)も重要文献としてヨーロッパ諸語に翻訳された。…
※「ゴロブニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
弾道ミサイルなどが日本に飛来・落下する恐れのある場合に、それを破壊するよう防衛大臣が自衛隊に命じること。弾道ミサイル破壊措置命令。[補説]原則として内閣総理大臣の承認を得た上で行われるが、事態の急変な...