ゴア(英語表記)Goa

翻訳|Goa

精選版 日本国語大辞典 「ゴア」の意味・読み・例文・類語

ゴア

〘名〙 (gore) 洋裁で、襠(まち)のこと。

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改訂新版 世界大百科事典 「ゴア」の意味・わかりやすい解説

ゴア[州]
Goa

インド中西部アラビア海に面する州。コンカンKonkan海岸の南端にある。1961年インド政府の武力解放により,ボンベイ北方のダマン,カーティアーワール半島海岸部のディウDiuの両旧ポルトガル植民地とともにインド共和国に併合され,あわせて政府直轄地となる。87年ゴアのみで州になり,ダマン・ディウは直轄地として残った。面積3702km2,人口134万(2001)。州都はパンジムPanjim(パナジPanaji,新ゴア)。ゴア付近は,西ガーツ山脈から流れ出るズワーリZuari川やマーンドビMandovi川などが流入し,中部アラビア海岸では最も三角州性の沖積低地が発達した所であり,またこれらの河川がらっぱ状に河口を開いているため良港の条件を備えている。ポルトガル領時代のゴアの中心は,上記の両川と東のコンバルジュ運河に囲まれたゴア(ティスワリ)島北東部にあった。地形的には,海岸から内陸に向かうにつれ,海岸沿いの砂丘列→沖積低地→丘陵性低山→急峻な西ガーツ山脈西斜面と変化し,これにつれて土地利用も,ココヤシ→イネ→カシューナッツ→森林(チークなどを特産)と変わる。ゴアの気候は典型的なモンスーン気候で,6~9月の南西モンスーン期に全年降水量2413mmの91%までが降る。

 16世紀初頭ごろのゴアはビジャープルのムスリム王の支配下にあり,その第2の首都として繁栄していた。1510年に艦隊を率いて来航した第2代ポルトガル総督アルフォンソ・デ・アルブケルケはここを攻略した。彼はムスリム王の都市を破壊し,リスボンを模してゴア(古ゴア)を建設し,ここをポルトガルのアジアにおける交易とキリスト教伝道の根拠地とした。42年にはフランシスコ・ザビエルも来訪し,ここから日本までの伝道に乗り出していった。天正少年遣欧使節の伊東マンショたちも,往路の83年と帰路の87年に訪れた。最盛期の16世紀末には人口20万~30万人を数え,〈黄金のゴア〉と称せられた。しかし17世紀中期になると,コレラ,マラリアあるいはチフスの相次ぐ流行のためにゴアの人口は減少し,都市も西方8kmのゴア島西端のパンジムに移転し始めた。政府も1760年ごろにはパンジムに移動した。17世紀にはオランダイギリスの進出によるポルトガルのアジアにおける制海権の喪失,また18世紀には香料貿易の縮小があり,ゴアは化石化した存在となったが,ポルトガルの領地は18世紀に周辺地域を編入し,西ガーツ山脈にまで達した。いまは廃墟に近い旧ゴアには,聖ザビエルの壮麗な寝棺を安置するボン・ジェス教会(1783再建),またザビエルの日本への案内者となったアンジローヤジロウ)たちが受洗した聖パウロ学院の聖堂前壁など多くの教会・修道院の遺跡が残っている。

 現在のゴアの経済活動の中心は,パンジムとはズワーリ河口を隔てたマルマガンオとその東3kmにあるバスコ・ダ・ガマの両市に移っている。ゴア領内に豊富に産出する鉄鉱石(1951年より日本が開発,輸入),マンガンは前者より輸出されており,また後者には石油精製所がある。
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ゴア
Charles Gore
生没年:1853-1932

英国国教会の聖職者。オックスフォードのベリオール・カレッジに学び,1875年トリニティ・カレッジのフェロー。1902年ウースター主教に聖別され,バーミンガム主教を経て,11年オックスフォード主教に就任。アングロ・カトリック主義に立ったが,伝統的信仰と近代科学の衝突に深い関心を寄せ,カトリック教義と現代の聖書批評学とを調和させるために1889年《ルクス・ムンディ》を編集出版した。自由主義的カトリック主義と呼ばれたその主張は,保守的な神学者たちからは批判されたが,新しい世代には大きな影響を及ぼした。1921年から24年にかけ《神への信仰》《キリストへの信仰》《聖霊と教会》の三部作を刊行し,キリスト受肉論を基礎としたアングロ・カトリック主義を確立し,日本聖公会を含む世界の聖公会に強い感化を与えた。社会問題にも関心が強く,《キリストと社会》(1928)でキリスト教福音の社会的意味を強調し,バーミンガム時代は社会実践に励んだ。
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百科事典マイペディア 「ゴア」の意味・わかりやすい解説

ゴア

インド西岸,アラビア海に面した旧ポルトガル領植民地。ダマンディウと合わせて中央政府直轄領。ココナッツ,カシューナッツ,マンゴーを産する。主都パンジム(新ゴア)はマンガン鉱,鉄鉱石の輸出港。1510年ポルトガル領有以後,イエズス会のアジアへの伝道基地,中継貿易で発展。インド独立後,解放運動が続けられ,1961年12月インド連邦政府が武力解放。旧ゴア市にカトリック教会,遺跡が多い。教会群と修道院群は1986年,世界文化遺産に登録。3702km2。145万8545人(2011)。
→関連項目カブラルゴアの教会群と修道院群リンスホーテン

ゴア

アメリカの政治家。コロンビア大学卒業。1993年から2001年まで,政権で副大統領を務める。2002年の大統領選で民主党の候補となったが,共和党のブッシュに僅差で敗北した。副大統領時代に情報スーパーハイウエイ構想を打ち出し,インターネットの爆発的普及に道を開き,クリントン政権末期には,ナノテクノロジー研究への資金支援を提唱するなど,先進的政策提言で知られる。環境問題にも早くから取り組み,2007年,地球温暖化の危機に警鐘を鳴らす,IPPC(〈気候変動に関する政府間パネル〉)とともにノーベル平和賞を受賞,自ら主演した2006年のドキュメンタリー映画《不都合な真実》はアカデミー賞を受賞した。

ゴア

英国国教会の聖職者。オックスフォード主教。《ルクス・ムンディ》の編集・刊行でカトリック教義と聖書批評の調停を図るなど,自由主義的傾向を代表する。著作に《キリストと社会》(1928年)ほか。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ゴア」の解説

ゴア
Goa

インド南西部の州で,アラビア海に面する港市。16世紀初頭のゴアは,ビージャープール王国スルタンの第1の港市として繁栄していたが,1510年,ポルトガルの第2代インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがここを攻略し,リスボンを模してゴア(旧ゴア)を建設し,ポルトガルのアジアにおける活動の拠点とした。16世紀末に最盛期を迎えたが,オランダ,イギリスの進出により衰退に向かい,都市もゴア島西端のパンジム(新ゴア)に移転した。ポルトガル領ゴアは,1961年,インド政府に武力的に併合され,政府直轄州となり,87年,インドで25番目の独立州となった。旧ゴアには,フランシスコ・ザビエルの寝棺を安置するボン・ジェス教会など多くの教会遺跡が残っている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ゴア」の意味・わかりやすい解説

ゴア
Gore, Charles

[生]1853.1.22. ウィンブルドン
[没]1932.1.17. ロンドン
イギリス国教会の神学者,主教。オックスフォード大学に学ぶ。オックスフォードの神学者たちによる,主として受肉に関する神学論文集『世の光』 Lux mundi (1889) 刊行に尽力。そのなかの彼の論文は保守派からの反論を浴びた。一貫して高教会主義に立ち,受肉説を基に伝統神学を新時代に生かそうとした。 1892年男子修道会設立。 1911~19年オックスフォード教区主教。 24~28年ロンドン大学神学部長。主著『教会と聖務』 The Church and the Ministry (89) ,『受肉』 The Incarnation (91) ,『聖霊と教会』 The Holy Spirit and the Church (1924) ,『信仰の再建』 The Reconstruction of Belief (3巻,24) 。

ゴア
Gore,Albert

[生]1948.3.31. ワシントンD.C.
アメリカ合衆国の政治家。クリントン政権の副大統領 (1993~2001) 。父はテネシー州選出の元上院議員。ハーバード大学卒業 (1969) ,志願してベトナム戦争に従軍した。故郷の『ナッシュビル・テネシアン』紙の社会部記者を経て,1976年 28歳で連邦下院議員に当選,その後3選し,1985年から上院議員。 1993年ビル・クリントンが大統領に就任するとともに副大統領となり,2期8年間務めたのち,その実績を掲げて 2000年大統領選挙に出馬したものの,共和党候補のジョージ・W.ブッシュに敗れた。国防問題ではタカ派に近かった。環境保護派として活躍し,2007年気候変動に関する政府間パネル IPCCとともにノーベル平和賞を受賞した。

ゴア
gore

服飾用語で,スカートの構成に用いる三角形または台形の布をさす。本来,三角形の土地や布片の意。ゴアを幾枚も継ぎ合せてできる,ウエストで細く裾で広がるスカートをゴアドスカートという。また傘に張る三角形の布もいう。 (→襠〈まち〉 )  

ゴア
Gore

ニュージーランド,サウス島南部の都市。サウスランド地方の北部にあり,周辺の農牧地帯および炭田 (マタウラ炭田など) の中心地。人口1万 988 (1991推計) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ゴア」の解説

ゴア
Goa

インド西岸,アラビア海に面するインド政府直轄の港市
もとヒンドゥー教徒の都市であったが,15世紀にイスラーム教徒が再建。1510年ポルトガルのアルブケルケが占領し,ヨーロッパ勢力によるアジア初の植民地とされた。それ以来,ポルトガルのアジア進出と東洋布教の根拠地として繁栄し,フランシスコ=ザビエルや,日本の天正少年遣欧使節団もここを訪れている。17世紀を全盛とし,その後,ポルトガル勢力の衰退とともに衰え,1961年末インドに接収された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ゴア」の解説

ゴア

インド西海岸の港市。1510年ポルトガルが占領してインド総督をおき,東洋における貿易やキリスト教布教の中心地となった。16世紀後半,ポルトガル船がマカオ経由で日本へ来航,日本からも大友宗麟や豊臣秀吉が総督に書簡を送った。17世紀後半からはイギリスやオランダのアジア進出でポルトガルの地位が低下,疫病の流行などもあり衰退。1961年インドがポルトガル領を接収し,87年にパナジを首都とする州が設置された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ゴア」の解説

ゴア
Goa

インド半島西岸にある港湾都市
1510年ポルトガルのインド総督アルブケルケによって占領され,以後その東洋経営の一大中心地となったが,17世紀以降衰退。1961年インドに奪回された。

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世界大百科事典(旧版)内のゴアの言及

【大航海時代】より

…マヌエル王はまたインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために〈インド領〉を設置し,その初代副王としてフランシスコ・デ・アルメイダをインドに派遣した。アルメイダはマヌエル王の方針を忠実に実行したが,彼の後を継いだアフォンソ・デ・アルブケルケはむしろイスラム商人によるインド洋の国際貿易支配を打破しようとして,1510年にはゴアを占領し,さらにアデン,ホルムズを攻撃し,ホルムズを朝貢国とするとともに,11年にはマレー半島のマラッカ王国を占領し,翌年船隊をモルッカ諸島に派遣した。また13年にはマラッカから中国に初めて船隊が派遣された。…

【南蛮貿易】より

…1543年(天文12)ポルトガル人の種子島漂着を契機にして,ポルトガル商船および彼らのジャンク船がリャンポー(寧波(ニンポー)),マラッカ等から西南九州の鹿児島,山川,坊津,府内,平戸等の各港に来航した。ポルトガル人は57年(弘治3)中国人からマカオ居住の許可を得,同地をゴア,マラッカと日本とを結ぶ定期航路の中継地および貿易拠点として発展させ,さらに78年(天正6)には広東市場での交易権を得て日本貿易拡大のための足固めをした。彼らの日本貿易が年々盛んになった理由の一つは,当時の明政府が海禁政策をとっていたことで,このため当時途絶していた日明間の貿易を肩代りし,かつ両国間の貿易を中継する形で進展した。…

※「ゴア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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