コンコルド広場(読み)コンコルドヒロバ(英語表記)Place de la Concorde

デジタル大辞泉 「コンコルド広場」の意味・読み・例文・類語

コンコルド‐ひろば【コンコルド広場】

パリセーヌ川右岸、シャンゼリゼ通りの東端に位置する広場フランス革命中はギロチンが設けられ、ルイ16世らが処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「コンコルド広場」の意味・読み・例文・類語

コンコルド‐ひろば【コンコルド広場】

パリの中央部、セーヌ川の右岸にある広場。一八世紀後半にルイ一五世の命で建設されたもので、中央に王の像とエジプトから贈られたオベリスクが立ち、ルイ一五世広場と呼ばれた。フランス革命ではルイ一六世がギロチンにかけられ、革命広場と呼ばれたが、一八三〇年現在名に改められた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンコルド広場」の意味・わかりやすい解説

コンコルド広場
こんこるどひろば
Place de la Concorde

フランスの首都パリの中央部、セーヌ川右岸第8区にある広場。東西360メートル、南北210メートルの方形で、パリ市内最大の広場である。南はセーヌ川に臨み、コンコルド橋によって対岸下院(ブルボン宮)に通じ、北はロアイヤル通りが延び、マドレーヌ教会の正面と対峙(たいじ)している。東はチュイルリー庭園、西はシャンゼリゼ大通りに通ずる。中央に、1836年エジプトのルクソールから移したオベリスクが立ち、それを挟んで南北に噴水が、周囲にフランスの諸都市を象徴する女神像が配置され、均整のとれた広場となっている。広場は1757~63年ガブリエルによって建設され、72年までルイ15世広場、92年レボリュシオン(革命)広場、95年コンコルド(和合の意)広場と改称され、一時ルイ15世広場に復したこともあるが、1830年以来現名となっている。フランス革命中はギロチン(断頭台)が設けられ、ルイ16世、マリ・アントアネットをはじめ多くの名士の処刑が行われた舞台として有名である。この広場を含むパリのセーヌ川の河岸は1991年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

高橋 正]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンコルド広場」の意味・わかりやすい解説

コンコルド広場
コンコルドひろば
Place de la Concorde

フランス,パリの中心部セーヌ川右岸,チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りの間にある方形の広場。1辺は約 250m。南はセーヌ川に,北はマドレーヌ聖堂に面する。 1748年ルイ 15世の命により A.ガブリエルが設計。広場中央に E.ブーシャルドン作のルイ 15世騎馬像おき,まわりにはパビリオンや高欄を設けて「ルイ 15世広場」と呼ばれた。大革命時代の 92年,王の像はこわされて石膏の自由像が代って立ち,名称も革命広場と改められ,ルイ 16世,マリー・アントアネットら三千数百人がここに設けたギロチンにより処刑された。 1831年,エジプトからルイ・フィリップに贈られたルクソールのオベリスクを中央に建立。 54年 J.イトルフの案に基づき,現在の形に整えられた。

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世界の観光地名がわかる事典 「コンコルド広場」の解説

コンコルドひろば【コンコルド広場】

フランスの首都パリの中心部にある広場。チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りの間にある。広場中心には、エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクが建っている。地下鉄コンコルド駅が最寄り駅となっている。フランス革命前には、この広場にルイ15世の騎馬像が置かれていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていたが、革命後、この騎馬像は撤去されて「革命広場」と呼ばれるようになった。1794年のフランス革命終結時に、ルイ16世やマリーアントワネットをはじめ大勢の人々のギロチンによる処刑が行われた広場でもある。この広場には、この処刑を記したプレートが設置されている。◇現在の「コンコルド広場」という名称が使われ出したのは革命直後の1795年ごろで、1830年に正式な広場の名称となった。

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世界遺産情報 「コンコルド広場」の解説

コンコルド広場

凱旋門からまっすぐシャンゼリゼ大通りが延び、その先にコンコルド広場があります。広場は八角形になっており、8つの隅にはフランスの8大都市を表す8つの女神像が置かれています。広場の中心にそびえるオベリスクのあたりからは、エトワールの凱旋門、カルーゼルの凱旋門、ラ・デファンスの新凱旋門が見渡せ、マドレーヌ教会やブルボン宮といった歴史的建造物も一望のもとに見渡せます。フランス革命後には「革命広場」と呼ばれ、18世紀末、マリー・アントワネットをはじめ多くの命が断頭台の露と消えたのもこの広場でした。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

世界大百科事典(旧版)内のコンコルド広場の言及

【バロック美術】より

…同様な都市空間の生成はアルプス以北の諸国にも見られ,フランスでは,アンリ4世の時代以降,パリに,円や三角,方形などの幾何学的な平面をもつ記念広場が,それを取り巻く市街建築の整備によって誕生した。バンドーム広場(J.H.マンサール,1685‐99)やコンコルド広場(J.A.ガブリエル,1755‐70)はその例である。こうした建築のスケールを超えた空間のデザインが,もうひとつ豊かな結実を見せたのは,17世紀フランスの幾何学式庭園であり,強い中軸線によって広大な庭の空間を統合するその方法は,ル・ノートルのベルサイユ宮殿の庭園において頂点に達し,その宮殿建築とともに,ヨーロッパ各国に大きな影響を与えた。…

【広場】より

…一方,パリではブルボン王朝の栄華を都市空間に示すべく,ル・ノートル,マンサールなどの計画によって整備,改造が進められた。ローマでは,カンピドリオ広場,サン・ピエトロ広場など,パリではバンドーム広場,コンコルド広場などがある。このような都市空間の秩序づけはパリではさらにオスマンの都市改造に引き継がれるとともに,イギリスやドイツはもとよりワシントンなど新大陸の首都計画にも大きな影響を与えたのである。…

※「コンコルド広場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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