コッホ(Robert Koch)(読み)こっほ(英語表記)Robert Koch

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

コッホ(Robert Koch)
こっほ
Robert Koch
(1843―1910)

ドイツの細菌学者。パスツールと並んで「細菌学の祖」と尊称される。クラウシュタールに生まれ、1862年ゲッティンゲン大学に入学、医学を修めた。卒業後にラクウィッツで医業を開業、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)では軍医として従軍、復員後、地方衛生技師試験に合格した。ウォルシュタインで医官として市民の診療のかたわら、原始的な研究室で炭疽(たんそ)家畜死体の血液中にみられる桿状体(かんじょうたい)の研究に熱中した。当時フランスのダベーヌCasimir Joseph Davaine(1812―1882)は炭疽死体にみられる桿状微生物bacteridiumと名づけて炭疽病原とみていた。コッホは、この桿状体が顕微鏡の下で糸のように長く成長し、やがてはその体内に芽胞を形成することを連続観察した。そしてこの芽胞が発芽する条件をも調べた。すなわち、死体血液をマウスに接種すると翌日には死ぬ。そのマウスの血液脾(ひ)には桿状体が無数に存在することを証明し、マウスからマウスへと20代も連続継代した。またウシ眼房水で純培養を行い、この培養菌をマウスに接種して前例と同様の病変を証明した。

 1876年4月2日、以上の研究成果について、ブレスラウ大学教授で植物学者のコーンFerdinand Julius Cohn(1828―1898)とその同僚たちの前で標本供覧講演を行い賞賛を受け、コーンの厚意によって専門雑誌に発表した。続いて創傷感染の病原菌を研究して、膿(のう)中のブドウ球菌、連鎖球菌を病原と認めて報告した。

 1880年、ベルリンの国立衛生院正職員に抜擢(ばってき)された。このことは彼の偉業である結核菌の発見に大きくつながる。1882年3月24日、コッホは結核菌の発見についてベルリンでの生理学会で講演し、詳細な論文を同年の『Berliner klinische Wochenschrift』(『ベルリン臨床週刊誌』)の19号に発表した。染色されにくい結核菌の検出に、アルカリ性メチレンブルー40度40~60分を用いる特殊染色法を考案し、すべての肺結核患者の喀痰(かくたん)中にその存在を証明した。また凝固血清を用いて結核菌を培養し、実験動物にはモルモットを用いた。

 病原菌の決定に関して、後の人が「コッホの原則」とよぶ以下の3か条を理念としていた。箇条書きにしたのは後の研究者であり、したがって人によって文章に違いがある。

(1)問題の微生物は、その病気のすべての症例において証明されなければならない。また病変に一致して分布していなければならない。

(2)病人の体外で、試験管内で純培養され、数代継代されなければならない。

(3)その培養菌を動物に接種して、同じ病気を再現しなければならない。

 なお、のちになって、快復期の患者の血清中に、病原菌に対する抗体が証明された。そのため、これを病原決定に利用する、すなわち問題菌と快復期患者血清抗体との間におこる特異的抗原抗体反応の証明を、第4条としてあげる人もいる。

 1883年、コレラ病原探究のためにエジプトに赴いたが、エジプトでは成果があげられず、インドにおいてコレラ菌の分離証明に成功、1884年7月7日のベルリンでのコレラ問題会議記録にその詳細がみられる。なお、今日、コレラ菌の学名はVibrio cholerae Pacini 1854となっている。これは、コッホの研究より30年前に、イタリアのパチニーFilippo Pacini(1812―1883)がコレラ死体の腸管内に活発に運動する微生物を発見、コレラの病原とみなして学名を与えて発表し、この論文の意義が認められているためである。だが、コレラ菌の実際的な科学はコッホから始まっている。1885年ベルリン大学教授。

 1890年、結核に対する特効治療薬としてツベルクリンを発表した。ツベルクリンは皮膚結核に対しては劇的な効果をもたらしたが、肺結核その他に対しては逆効果すら問題となり、結局、結核のアレルギー診断(ツベルクリン反応)薬として活用され今日に及ぶ。

 青年時代に探検家にあこがれていたと伝記にみられる。成人になってからのコレラ菌探究の旅行のほかに、エジプト、インド、ニューギニアに旅行し、熱帯病調査研究と対策のために貢献した。赤痢アメーバはその間に発見した記念碑的業績である。1891年国立伝染病研究所初代所長となり、ドイツの科学アカデミー会員のほか、ストックホルム、フランス、ウィーンのアカデミー会員にも推され、1905年「結核に関する発見と研究」によりノーベル医学生理学賞を受賞した。

 1908年(明治41)6月12日、夫人とともに来日、横浜に上陸し、8月24日まで滞在、アメリカを経て帰国したが、その間の状況は石黒忠悳(ただのり)編『細菌学雑誌臨時増刊、ローベルト・コッホ氏歓迎記念号』(1908)に詳しく記録されている。1910年5月27日死去。葬儀には日本から北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)の代理として秦佐八郎(はたさはちろう)が参列した。北里はコッホ滞日中にひそかに毛髪を採取して保存し、没後これを祀(まつ)ってコッホ祠(し)を建立、この祠(ほこら)には1931年(昭和6)死去の北里も合祀され、今日も北里研究所に収められている。

 免疫血清療法のベーリング、化学療法のエールリヒはともにコッホ門下のノーベル医学生理学賞受賞者であり、この二人に続くジフテリア菌純培養の成功者でウイルス学のパイオニアのレフラーと日本の北里柴三郎はコッホ門下の四天王と称される。

[藤野恒三郎]

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