ケイタ(Salif Keita)(読み)けいた(英語表記)Salif Keita

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ケイタ(Salif Keita)
けいた
Salif Keita
(1949― )

マリミュージシャンバマコ西方の村ジョリバに生まれる。スピリチュアルな歌唱、マンディンゴ(マリンケに属す集団)の音楽と世界中のさまざまな音楽を混交させた音楽で知られる。アフリカでは強く聖痕を帯びた存在として考えられるアルビノ(白皮症)として生まれたこともあり、グリオ系の音楽文化に身を投じることになったという。グリオとは、アフリカの伝統社会における吟遊詩人で、代々宮廷に仕える芸能集団に属する技能者であり、歴史の語り部的な役割を果たす。マリ、ギニアセネガルガンビアは歴史的にマリ帝国の影響力の強かった地域であり、マンディンゴ系のグリオ文化が色濃く残っている。ケイタもそうした伝統のなかにいたが、一方で1970~1980年代マリ・マンディンゴ系音楽の革新者でもある。

 1970年代のバマコではレール・バンドと、1971年に結成されたル・アンバサドゥール・ドゥ・モテルという二つのバンドがしのぎを削っており、ケイタはレール・バンドに参加する。このころのマリは、キューバ音楽の影響も強く受けており、後のケイタの音楽にもキューバ音楽の要素が流れ込んでいた。同じころ、モリ・カンテMory Kante(1950―2020)とカンテ・マンフィーラKante Manfila(1946―2011)という2人のギニア人ミュージシャンがバマコの音楽シーンに登場する。2人は従兄弟で、カンテは歌手、マンフィーラはギタリストであった。カンテはレール・バンドに、マンフィーラはアンバサドゥールに参加、彼らはケイタとともにバマコの音楽シーンを牽引していった。

 1980年、ケイタはマンフィーラらアンバサドゥールのミュージシャンたちとアメリカ合衆国に4か月間滞在し、『プリンプリン』を録音する。しかし1982年には、ケイタとマンフィーラのあいだで摩擦が起き、ケイタはパリに向かい、そこで名作『ソロ』(1987)を録音。この録音に参加したのが後にユッスー・ンドゥールのキーボード奏者を務めるジャン・フィリップ・リキエルJean Philippe Rykiel(1961― )だった。その後、ケイタはブラジルのミュージシャンと共演するなど、グローバルな活動を続けていく。一方で、彼のグループにいたミュージシャンを中心に、ケイタの影響を受けた多くのミュージシャンが独自の活動を展開していく。

 ケイタはセネガルのンドゥールらとともにアフリカの音楽文化を世界に紹介すると同時に、他の国・地域のミュージシャンたちとのネットワークをつくり上げたという点において希有な存在である。

[東 琢磨]

『Simon Broughton, Mark Ellingham, Richard TrilloWorld Music Vol.1; Africa, Europe and the Middle East(1999, The Rough Guides, London)』

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