グレゴリウス7世(読み)グレゴリウスななせい(英語表記)Gregorius VII

改訂新版 世界大百科事典 「グレゴリウス7世」の意味・わかりやすい解説

グレゴリウス[7世]
Gregorius Ⅶ
生没年:1021ころ-85

ローマ教皇在位1073-85年。前名はヒルデブランドHildebrand。イタリア,トスカナの貧しい家に生まれ早くからローマに出て,サンタ・マリア修道院で教育を受け,グレゴリウス6世(在位1045-46)に仕えたが,1046年ハインリヒ3世による教皇追放に同行してライン地方に亡命。翌年教皇の死を契機修道士となるが,49年新任教皇レオ9世(在位1049-54)とともにローマに帰り,以後6代の教皇のもとで大きな影響力を持つ。59年ローマ教会の聖堂助祭に,アレクサンデル2世(在位1061-73)のもとで教皇庁尚書院長を務めた。73年教皇に選ばれてからは聖職売買司祭の結婚禁止を中心とする教会改革を強力に推進したので,この前後の改革運動は彼の名にちなんでしばしば〈グレゴリウス改革〉と呼ばれる。

 とくに《教皇教書(デクタトゥス・パパエ)》という27命題集が作成された75年から,俗人による聖職叙任も聖職売買に当たるとして禁止されたから,それを重要な政策としたハインリヒ4世との対決が深まり,76年皇帝は教皇の廃位を,教皇は皇帝の破門を宣言し叙任権闘争は激化した。この破門宣告による事態悪化と失脚を恐れた皇帝は,3日間雪の中にたたずんで教皇の赦免を乞わざるをえなかった。世にいう〈カノッサの屈辱〉である。しかし破門を解かれた皇帝は再び教皇を廃位し,対立教皇クレメンス3世(在位1084-1100)を立て,ローマの教皇を攻囲した。教皇はロベール・ギスカールに救出され,サレルノに逃れそこで死去した。教皇は教会の自由と純潔と普遍実現のため終始努力を傾け続けた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グレゴリウス7世」の意味・わかりやすい解説

グレゴリウス7世
グレゴリウスななせい
Gregorius VII

[生]1025頃. ソバーナ近郊
[没]1085.5.25. サレルノ
ソバーナ近郊出身の第157代教皇(在位 1073~85)。聖人。本名 Hildebrand。中世における最も偉大な教皇の一人。教皇位を追われたグレゴリウス6世に付き添ってドイツへ赴き,その没後,帰国途上のクリュニー修道院で修道士となったとされる。ローマの副助祭(→助祭)をはじめ,教皇レオ9世に始まる教会改革運動で重要な役割を担い,1058年には助祭長となった。その間フランス,ドイツ,ミラノ,さらにおそらくはノルマン人支配下の南イタリアへも教皇大使として派遣された。1073年に教皇位につき,教会改革,十字軍による聖地回復,東西両教会の分裂からの再合同を目指す。しかし,神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立が深まり,激烈な叙任権論争が起こった。1077年1月,北イタリアのカノッサ城で,破門の赦免を求めるハインリヒ4世を屈服させたが(→カノッサの屈辱),のちに劣勢に立たされ,1084年には皇帝の軍がローマを占領クレメンス3世対立教皇)が登位した。グレゴリウス7世はノルマン勢に救出されてサレルノに逃れ,そこで没した。グレゴリウス7世の教会改革や教会行政上の中央集権化は,中世教会を長く規定した。27条からなる『教皇令』Dictatus papaeが残されている。祝日は 5月25日。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「グレゴリウス7世」の解説

グレゴリウス7世(グレゴリウスななせい)
Gregorius Ⅶ (本名 Hildebrand)

1020?~85(在位1073~85)

ローマ教皇。貧しい家に生まれ,若い頃クリュニー修道会の影響を受けた。改革的な教皇レオ9世に従って教皇庁に入り,6代二十数年間,教皇を補佐した。1073年即位すると聖職売買,司祭の妻帯,私的叙任の禁止に努め,75年「教皇令」を発して神政政治的宣言を行った。翌年叙任権問題で衝突したドイツ皇帝ハインリヒ4世を破門し,77年「カノッサの屈辱」により赦免を与えた。83年勢力挽回を図るハインリヒのためローマを包囲され,シチリア王に助けられたが,結局サレルノに退き,不遇のうちに没した。

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世界大百科事典(旧版)内のグレゴリウス7世の言及

【教皇】より

…西方教会では5世紀中葉以来ローマ司教のみが〈パパ〉すなわち〈信仰上の父〉〈教皇〉と呼ばれるようになった。この親称はグレゴリウス7世Gregorius VII(1073‐85)によって普遍化されるにいたった。グレゴリウス1世(590‐604)は〈神のしもべらのしもべ(セルウス・セルウォルム・デイServus servorum Dei)〉とみずからを称したが,それこそ教皇職の真の姿を表している。…

【キリスト教】より

…ニコラウス2世(在位1058‐61)は1059年のローマ会議で教皇選挙に世俗人の参加を禁止する法を立て,政治的権力から離れた〈教会の自由〉を主張した。先にクリュニーの修道士であったグレゴリウス7世は,教会法学者ペトルス・ダミアニの熱烈な支持をうけて,1076年のウォルムス会議でドイツ皇帝ハインリヒ4世を破門にした。翌年この皇帝がカノッサに赴いて悔悛した話はあまりに有名である(カノッサの屈辱)。…

【叙任権闘争】より

…これに対し,11世紀半ば以降諸教皇は教皇権の確立,規律の刷新を目指して改革にのりだした。特にグレゴリウス7世は教会の自由,教権の俗権に対する優越を主張し,聖職売買,俗人叙任を強く排撃してドイツ王ハインリヒ4世と対立した。王のミラノ大司教任命をきっかけに,1076年王と教皇との間に全面的衝突が生じ,帝権と教権の争いが開始されたのはこのためである。…

【政教分離】より

…皇帝は教会から追放されて俗人になり,キリスト者としての義務の履行については教会の判断に従うべきであると説かれたのである。教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を破門するときには,彼は国王職にふさわしくないと述べたのに対して,カノッサで贖罪する皇帝を赦すときに,破門の政治的効果の廃棄=国王職への復職を問題にしなかったのは,この分離の進行を物語っている。 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離は,叙任権闘争当時のキリスト教的社会においては,精神的なものの優位=教会政治に帰結したが,教会の至上性の主張が政治と宗教の分離を前提とする以上,宗教と政治の関係は可逆的であったことに留意する必要がある。…

※「グレゴリウス7世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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