グラーフ(英語表記)Graf[ドイツ]

精選版 日本国語大辞典 「グラーフ」の意味・読み・例文・類語

グラーフ

(Reinier de Graaf レイニエ=ド━) オランダ解剖学者。人間の生殖器官の解剖に業績を上げ、近代生殖生物学の基礎を築いた。「グラーフ濾胞(ろほう)」の発見者。(一六四一‐七三

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改訂新版 世界大百科事典 「グラーフ」の意味・わかりやすい解説

グラーフ
Graf[ドイツ]

フランク王国のもっとも重要な地方官。ラテン語ではコメスcomes。その管轄領域がグラーフシャフトGrafschaft(コミタートゥスcomitatus)である。ふつう伯と訳される。フランクのグラーフ制度の起源はローマ末期のコメス・キウィタティスに求められる。これは都市(キウィタス)の防衛を任務とする軍隊指揮官であったが,民族大移動の混乱期に,ローマの地方行政組織である属州制度が崩壊した結果,行政的・司法的機能をも兼ねるようになった。メロビング朝の国王はこれを継承し,ただし重心を都市から農村に移すことにより,地方行政組織をつくり上げていったと思われる。グラーフははじめ国王が自由に任免できる官吏であったが,7世紀初頭に在地有力者でなければグラーフになりえないことが規定された結果,官僚的性格が薄れ,領主化の傾向が強まった。

 カロリング朝の国王,とりわけカール大帝は,新たにフランク王国に組み込まれたライン以東の地域にもグラーフ制度の導入を推進するとともに,アウストラシア地域出身の国王の家臣層(ウァッシ・ドミニキ)をグラーフとして各地に送り込んで官僚化の再建をはかり,在地の有力者をグラーフに任命する場合にも,国王に家臣としてのレーン制的誠実義務を宣誓することを強制した。さらに定期的に巡察使を派遣して,グラーフの職務遂行を監督させた。だが,フランク王国の全域が,網の目のようにグラーフシャフトによって覆いつくされたと考えることはできない。グラーフシャフトの境界線はきわめて不明瞭であり,とりわけフランク王国の東部においては,グラーフは王領地ないし,国家の直轄領域を中心に,比較的狭い地域を実質的に支配しえたにすぎない。グラーフの任務はグラーフシャフト内の治安を維持し,関税その他の国家的収入を徴収し,巡回裁判を行って高級裁判権を行使することであった。さらに戦時の動員令が発令されたときには,管轄領域内の軍役義務負担者(原則としてすべての自由民が負うが,これには異論もある)を召集し,これを指揮して従軍する。グラーフの命令に違反する者には高額の罰金が課せられた。

 ルートウィヒ1世(在位813-840)以後,フランク王権の弱体化に伴い,グラーフ制度はしだいに解体過程をたどる。まず教会領,修道院領にインムニテートが与えられた結果,グラーフの支配領域が著しく縮小し,またレーン制(封建制度)の発展によりレーン(封土)の世襲化が確立するに伴い,グラーフ職にも世襲化が浸透して,官職的性格が失われ,グラーフシャフト自体がレーンと同一視されて,相続・分割の対象となった。この結果,中世においては,グラーフはもはや官職の性格を失い,封建制的政治秩序のなかでの地位を示す称号に転化を遂げた。
執筆者:

グラーフ
Oskar Maria Graf
生没年:1894-1967

ドイツの詩人,小説家。バイエルンの生れ。父の早逝後パン職人となる。現状脱出を願い,発明家や詩人に憧れて家出,L.トルストイやクロポトキンの影響を受け,ミュンヘンでボヘミアン生活を送り,このころアナーキストのミューザムErich Mühsamらを知った。第1次大戦中は一兵士として反戦姿勢を貫き,罹病除隊。1918年バイエルン革命に参加し,反革命後逮捕,リルケらの尽力により釈放された。表現主義詩集《革命家たち》(1918)によって認められ,戦後は労働者演劇やルポルタージュ文学にも進み,郷土文学《バイエルンのデカメロン》(1928)で文名を高めた。33年に亡命。ナチスが彼を〈血と地〉文学に推したことに怒り自作の焚書を求めるなど,亡命中は反ファシズム活動に従事,戦後は帰国せずアメリカ国籍のまま死んだ。自伝《我々は捕虜だ》(1927),《外からの哄笑》(1966),小説《アントン・ジッティンガー》(1938),《没落の遺産》(1959)など作品多数。
執筆者:

グラーフ
Regnier(Reinier)de Graaf
生没年:1641-73

オランダの医師,解剖学者。1660年代,ライデン大学ではF.シルビウス,ホールネJ.van Horne(1621-70)らの下で動物の生体解剖に基づく生理学実験がさかんに行われており,グラーフは,J.スワンメルダムN.ステノらとともにこれに参加。《膵液の性質と利用に関する医学研究》(1664)では消化液研究の新しいテクニックを開発,紹介した。また《雌性生殖器研究》(1672)ではグラーフ濾胞Graafien follicleを卵細胞と誤認して紹介,卵原説,精原説論争に物的根拠を提供した。なおA.vanレーウェンフックをローヤル・ソサエティに紹介したのはグラーフであったと伝えられている。
執筆者:

グラーフ
Urs Graf
生没年:1485ころ-1527か28

スイスの画家,版画家。ゾロトゥルンに生まれ,バーゼルをおもな活動の舞台としたが,画家としてだけでなく,自ら傭兵としてローマや北イタリアにもおもむいた。油絵は《戦争》1点が現存するにすぎないが,傭兵としての体験にもとづくデッサンや木版画が相当数残る。劇的な動きと,ときにグロテスクなまでに誇張された表情やしぐさを示すこれらの作品は,表現主義的な力強さを見せる。また当時の動乱の時代を伝える記録的な価値も少なくない。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グラーフ」の意味・わかりやすい解説

グラーフ
Graf; comte; count

中世初期のフランク王国で,王が地方の裁判,行政の統轄者として任命した役人。ラテン語でコメス comes。その管区をグラーフシャフト (ラテン語でコミタツス comitatus) と呼ぶ。広範な軍事上の権限と裁判権をもつ。メロビング朝のもとで,当初は王の側近の従士から選任されたが,7世紀に王権が弱まると在地の豪族がこれに加わった。カロリング朝に入って,グラーフ制が整備強化されたが,やがて教会領や貴族領のインムニテート (不入権) が発達するに伴いその権限は縮小し,レーン制の成立過程でグラーフの官職自体がレーン (封) に転化し,世襲されるようになった。それ以後,中世から近代にかけて,グラーフ (伯と訳される) は封建諸侯の位 (公 Herzogの下) を示す称号となった。

グラーフ
Graf, Oskar Maria

[生]1894.7.22. ベルクアムシュタルンベルガージー
[没]1967.6.28. ニューヨーク
ドイツの小説家。家業のパン屋を継いだが,ミュンヘンに出て清掃夫,郵便配達など多くの職業に従事,1917年以後詩作を始め,小説にも筆を染めた。バイエルンの郷土色豊かな農民小説で知られる。 33年亡命,アメリカに渡る。「俺を焼き殺せ!」の題のもとで『ウィーン労働者新聞』に書いたナチス弾劾文で世界的に有名。ニューヨークでもバイエルンの農民服で生活,奇行で知られる。『田舎作家のノート』 Notizen des Provinzschriftstellers (1932) ,『万人に反抗するもの』 Einer gegen alle (32) ,『わが母の生涯』 Das Leben meiner Mutter (47) など。

グラーフ
Graaf, Reinier de

[生]1641.7.30. スホーンホーベン
[没]1673.8.17. デルフト
オランダの医師,解剖学者。ユトレヒト,ライデン両大学で医学を学び,膵液に関する研究 (1664) が認められ,1665年フランスのアンジェル大学から医者の資格を得る。 67年よりデルフトで医師を開業しつつ,消化器と生殖器の解剖学を研究。胞状卵胞の発見者として知られている。この発見 (72) により,哺乳類においても他の動物と同様卵が存在することが知られるようになった (グラーフ自身は,自分が発見したものを卵そのものと考えた) 。ほかに血管への色素注入法を考案したことでも知られる。

グラーフ
Graf, Urs

[生]1485頃.ゾロツルン
[没]1526. バーゼル
スイスの画家,版画家,金工家。ストラスブール,チューリヒ,バーゼルで制作。北イタリアでの戦闘に傭兵として参加した。彼は A.デューラーの版画の影響を受け,銅版画では主として宗教的題材のもの,木版では風景画や風俗画を描いた。主要作品は『戦争』 (1515,バーゼル美術館) 。

グラーフ
Graf, Arturo

[生]1848. アテネ
[没]1913. トリノ
イタリアの詩人,評論家。レオパルディの影響を強く受け,厭世的な詩を発表したが,晩年に改宗した。主著『日没ののち』 Dópo il tramonto (1893) 。

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百科事典マイペディア 「グラーフ」の意味・わかりやすい解説

グラーフ

爵位の一つ。ドイツ語。ふつう伯爵と訳す。もとフランク王国の地方行政官の呼称であり,やがて上級貴族の称号,爵位として,神聖ローマ帝国,ドイツ帝国その他で用いられた。しかし19世紀半ば以後,これに伴う身分的特権は次第に減少し,やがて称号としての使用も廃止に向かった。→爵位
→関連項目カール[大帝]フライヘル辺境伯

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世界大百科事典(旧版)内のグラーフの言及

【消化】より

…F.シルビウスは唾液の役割に注目し,また化学の目で消化を見ることを強調した。その門からでたR.deグラーフは,膵液の意義を論じた(1664)。ブルンナーJohann Conrad Brunner(1653‐1727)はイヌの膵臓摘出実験を行い(1682),また十二指腸腺を発見した(1687)。…

【フランク王国】より


[行政組織]
 ここでも南北ガリアは対照的である。フランク王国の行政組織の根幹は,伯(グラーフ)制度であるが,南部ではキウィタス制度が存続していたので,フランク王国の代官としての伯(南部ではコメスと呼ばれ,多く在地のセナトル貴族層が任命された)が,キウィタスの行政,司法,軍事の大幅な権限をゆだねられたが,市民の自治組織も機能しつづけた。7世紀末以降,伯制度は崩れ,コメスは消滅するが,存続した場合にも都市司教の支配下に入るようになって,王権に対しキウィタスの独立性が強化された。…

【辺境伯】より

…フランク帝国および神聖ローマ帝国の重要な地方高官マルクグラーフの訳語。主として辺境防衛の任にあたる。…

【封建制度】より

…ところで,この領主権力は完全に自然発生的な独立の権力であり,それら相互の間にはさしあたりはなんらの秩序も存在せず,この状態をそのまま放置すれば社会は無政府状態に陥らざるをえない。のみならず,元来は国王の役人であったグラーフその他もやがて領主化し,国王に対して独立していった。カロリング朝が封建政策(レーン政策)を積極的に推進し,独立的な領主たちの間に封建主従関係を設定することによって,ともかくなんらかの権力秩序をつくり出すことに努めたのはそのためである。…

※「グラーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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